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未入会の市内在住校友の方、東久留米稲門会に入会しませんか。 1960年から1979年卒業した、東久留米市在住で東久留米稲門会に未入会の校友271名の方に本「東稲ニュース59号」をポストマンがお届けいたします。 入会されますと「東稲ニュース」隔月発刊、各催し物チラシ、名簿、年次報告書の配布及び15の趣味の部会へ気軽に参加できます。更に新年会、総会・懇親会、秋の旨いもの会に参加して地元の校友との交流が出来、懐かしい校歌が歌えます。 入会手続きは同封の「払込取扱票」を使用し、3000円をお振り込みいただくだけで東久留米稲門会会員になります。
7月30日(土) カラオケを楽しむ会 18:00〜 「オンチッチ」 8月 7日(日) 第2回役員会 13:30〜 生涯学習センター 8月17日(水) お誕生会 17:30〜 「やる気茶屋」 9月22日(木) 映画鑑賞会 14:00 成美教育文化会館 9月23日(金) ウォーキングを楽しむ会 9:00 東久留米駅改札 10月10日(月) 秋の旨いもの会 18:00 成美教育文化会館 [大学・校友会関係] 7月 9日(土) 早稲田大学商議員会 14:00〜 安次峰、菱山 7月21日(木) 早稲田大学校友会奨学生証授与式 18:30 平山 8月26日(金) 三多摩支部会長会 早稲田実業高等学校 平山 10月16日(日) ホームカミングデイ・稲門祭 11月 6日(日) 三多摩支部大会 早稲田実業高等学校
講演会 第26回講演会「東久留米の歴史と文化Part2」講演録
前回は、戦時中早稲田大学練成所と東久留米市との関係も含めた全般的な講演であったが、今回は東久留米市の江戸末期以降の講演であった。最近、江戸時代から明治期にかけて東久留米市で、今日に伝わる貴重な農家「村野家住宅」が主屋等7件を含め、国登録有形文化財に指定されたことは東久留米市の文化財としてニュースである。建物には武州世直し一揆の際、主屋の柱には刀の傷跡も残っている。 幕末時75,000の村々の支配の変遷のなかで、東久留米では10ヵ村(落合・小山・前沢・門前・神山・南沢・下里・柳窪・柳窪新田・栗原新田)が幕府直轄領等の支配体制であった。慶応4年府藩県三治制で韮山県・長瀞藩に編入、明治政府により各村々は消え、明治2年版籍奉還で品川県・長瀞藩管轄、明治4年廃藩置県で入間県・龍崎藩に所管され、明治5年に神奈川県。一方明治11年政府は村としての自治体制を復活、明治17年連合戸長制をとり、戸長を公選。初代戸長は村野七次郎氏。明治22年市町村制で神奈川県北多摩郡久留米村となり明治26年東京府に所管される。その後昭和18年東京都北多摩郡久留米村。昭和31年町制施行で東京都北多摩郡久留米町。昭和45年福岡県に久留米市があることから東京都東久留米市に市制施行される。東久留米は、水温が低く9割が畑作である。「米」は希望、願いであった。地名の由来は江戸時代黒目川を久留目川と呼ばれ、柳窪天神社の来梅からとの説もある。東久留米市の地名でよかったのであろうか。 (高橋哲男記) 映画鑑賞会 「ローマの休日」 次回の映画はあまりにも有名な映画なので、皆さんよくご存知のことと思います。この映画はラブストーリーとして完成度の高い、人々に愛され続けた映画史に残る名作です。 監督はウイリアム・ワイラー、アカデミー監督賞を3回受賞しており、ハリウッドきっての大監督です。重厚な芸術的作品を幅広い分野で作りつづけた名匠です。 ワイラー監督はこの映画を制作するに当たって、主役を自由にキャスティングできることを監督引き受けの条件にしたのです。会社側の構想はエリサベス・テーラーとケーリー・グラント主演で映画化することに決めていたのです。それを無視、ワイラー監督は無名にちかい新人オードリー・ヘップバーンを主役に抜擢したのです。主演男優はグレゴリー・ペックです。彼女の起用はこの映画にとって最高のヒットだったと思います。この映画でヘップバーンは上品で清楚な魅力で映画界に登場し、アカデミー主演女優賞を獲得、たちまちスターの座についたのです。 また、監督はこの映画の撮影、編集のすべてをローマで行うことを要求。その結果、予算の関係でカラー映画からモノクロ映画に変更されたのです。これほどローマで映画制作を固守したのは、1947年よりアメリカで赤狩りと呼ばれる共産主義者排斥運動が起き、この映画の脚本家ダルトン・トランボも赤狩りの犠牲となり映画界から追放されたのです。友人の脚本家の名義を借りることで映画化することが実現したのです。監督の右腕、共同制作者レスター・コーニックもパージされた一人です。監督は赤のレッテルをはられていても信頼のできるスタッフと国内の監視を逃れて、ローマで自由に映画制作をしたかったわけです。ワイラー監督は赤狩りに対して抵抗運動の先頭に立って闘った人物です。 ウイリアム・ワイラー監督なくして「ローマの休日」はなく、またオードリー・ヘップバーンも誕生していなっかたのです。 (高橋勤記) お誕生会
ウォーキング
5月22日(日)JR上野駅〜日暮里駅周辺巡り参加者15名。上野駅公園口から歩き始め、先ずは寛永寺輪王殿。彰義隊の歴史を思い出しながら歩き、旧東京音楽学校奏楽堂に至る。西洋音楽の曙から少年期。滝廉太郎の銅像を始め、在りし日の本居長世他の音楽家達を偲ぶと共に往時のままの建物に入りロマンに浸る。寛永寺霊園では徳川将軍4代家綱、5代綱吉の墓の豪華門構えに驚き、谷中霊園では15代将軍慶喜の質素な墓に権力者の勢いの落差を実感。昼食をとった広場では、幸田露伴の「五重塔」のモデルとなった壮大な塔 が近年の心中事件の煽りで焼失した跡地を告げる説明書。不心得者の惨禍に嘆息。剣客山岡鉄舟が開いた全生庵では怪談の円朝の名前も見つけ、その他著名な作家・画家・俳優等の墓を訪ね、有名な寺町散歩を堪能。終着は日暮里駅。打ち上げは何故か香港の飲茶。これが酒に合い、東久留米まで後引きとなった。 (東海俊孝記) 散策山歩き会
「加治丘陵へのハイキング」 6月3日(金)前夜半までの雨も上がり、ハイキング日和となり7名で出発。ホトトギスの鳴き声を間近に聞きながら、林の中をゆっくり歩く。サイクリングロードなので山のなかも舗装道路である。昼食場所である展望台へ登ると新宿、池袋のビル群がかすかに見え、反対側を振り返ると飯能、秩父の山々が近くに見えるということで、360度のパノラマを堪能しました。 帰りは所沢で反省会、その後二次会も・・・ (安次峰暁記) 囲碁部会 6月4日(土)日本棋院で行われた「オール早稲田囲碁祭」に当東久留米囲碁部会から、団体戦(各チーム5名)に「東久留米A」「同B」「西東京・東久留米(混成)」、個人戦に1名の合計16名が参加しました。結果は、「東久留米A」はA組で3位、「同B」はF組で3位、個人戦3位の成績を収めました。「西東京・東久留米(混成)」は入賞を逸しました。特筆すべきは、「A」チームの山ア敬雄さんが4戦全勝となりました。 (鮎貝盛和記) ゴルフ部会 6月10日(金)熊谷GCで第14回稲門・三田会対抗ゴルフ会を開催。両会合わせ23名の 参加があり、賑やかなゴルフ会となりました。団体戦は有力メンバーを全て揃えた三田会が2年振りに勝利し又個人戦も同会山本さんがネット71.4(グロス105)で優勝。 ポイントゲッターの太田、上原、藍原、上條、岩崎さんが欠場の中、稲門諸兄は健闘したものの新ペリアでのハンディキャップが当会に味方せず4.4ポイント差で三田会が通算10勝目(当会4勝)という結果でした。近場のゴルフ場の為、各位4時過ぎには一旦帰宅し夕方の表彰式・懇親会(東久留米駅西口鮮乃庄)まで少し体を休めることができたこともあり懇親会は楽しく盛り上がりました。当日はこの時期としてはベストに近いゴルフ日和でしたがその2週間後熊谷は気象庁観測史上6月として全国最高気温の39.8度を記録したのにはびっくりしました。尚秋の日程は東稲ニュース9月号でご案内しますが稲門例会と三田会との対抗戦の2開催を予定しております。 (伊東毅記)
グルメ部会
6月17日午前11時に東久留米駅2階に集合。女性を含む11名のグルメ愛好者が参加。わが母校早稲田の周辺の鰻の名店「すず金」にむかって、一同はりきって繰り出した。ところが電車のなかで、「この値段だし、あまり期待されても」と案内役のH氏の引けた発言に、「前宣伝と違う」「サギだ」とガゼン騒がしくなる。地下鉄「早稲田」に近い「すず金」さんに着いてみると、創業明治10年とホラの好きな大隈門下も太刀打ちできないこれぞ老舗中の老舗。「大隈さんも来たかもしれないな」「夏目坂の漱石先生も来たかも」と形勢は一転、ビールと酒で滑らかになった舌で、「これならいい」「うまい」と評価は一致した。予告よりも安い会費ですみ、不満の余地もなく、大隈講堂そばのワセダ・タワーに登って、15階のレストランで食後のコーヒーを飲みながら、学生時代には見られなかった高所からの眺望を楽しんだ。今回は母校に帰ったが、これまでの会は多彩なグルメ探訪を重ねており、秋にも行う予定なので、その節はご参加を。特に女性の参加歓迎。 (松本弘也記) 俳句部会 平成23年5月15日(日) 第131回句会 男女平等推進センター
平成23年6月19日 (日) 第132回句会 生涯学習センター 兼題: 「柿の花」 「田植」 当季雑詠 高得点句
女性サークル
(石寺美弥子記) 〈会員リレーエッセイ〉〜噴水広場〜 悲しみの極りに石と化すこと 杉本 達夫(会員) 万里の長城の東の端、山海関を東に越えて少し行くと、平地にぽっこり盛り上がった丘の上に、孟姜女(もうきょうじょ)廟という廟がある。孟姜女というのは、長城築城にまつわる伝説の悲劇の婦人であるが、1979年の夏にわたしが訪れたとき、タクシーの運転手氏は「娘娘廟(ニアンニアンミアオ)」と呼んでいた。土地の人はそう呼んでいるのだろう。「娘娘廟」というのは本来、子宝を授かるよう祈願する廟であって、全土のあちらにもこちらにもある。長城とは関わりがない。なのに孟姜女廟をそう呼ぶのは、婦人が祭ってあるから、歴史も伝承もへったくれもない、とにかく女の味方、子授けの神にしてしまえ、という次第なのかもしれない。 このときわたしはたくさん写真を撮っている。だがもう探し出すのが煩わしい。だから今回も薄れた記憶と手元の辞典類を頼りに書く。記憶にどんな錯覚や変形があるか、心もとない話である。写真を取り出してみて、記憶のずれが甚だしければ、自分に大いに恥じなくてはいけない。わたしが訪れた日、狭い境内はたいへんな人ごみだった。紐に吊るしたみやげ物の書画が、風にひらひらはためいていた。30年経つうちに、廟はおそらく華々しい観光名所になり、周辺の喧騒に包まれているのではあるまいか。 伝説というのは、秦の始皇帝が長城を築いた時というから、紀元前3世紀の話になる。孟姜女の新婚のその日に、夫が長城築造工事に徴発されていった。消息のない夫の身を案じ、孟姜女が冬服を携えてはるばる尋ねていったところ、夫はすでに人柱にされていた。孟姜女が嘆き悲しんでさめざめ泣いたところ、溢れ出る涙で長城が崩れ、夫のむくろが現れた。そして、孟姜女は海に身を投げて死んだ。だいたいそんな話ではなかったろうか。ある辞典によれば、夫は疲労で死んだという。話は幾通りにも伝えられるものであって、史実ではないから、どういう筋書きを取るかは好き好きなのである。そもそも、遺された妻の涙で壁が崩れるという話は、春秋時代、紀元前6世紀半ばの出来事として、古代の本に記されているそうだ。その話が伝わるうちに、唐代にいたって孟姜女伝説が生まれたのであるらしい。 長い石段(108段あるそうだが、仏教と関わりはあるまい)を登って廟に着くと、赤や青の原色を塗った小ぶりな建物の中に、真っ白な女人が質素な服装で、童子童女をしたがえて、憂いに満ちた表情で遠くの海を眺めている(はずである)。数キロ南に渤海湾が広がっているのであるが、わたしには見えなかった。狭い境内に建物が重なり、かたわらには「望夫石」と刻んだ大きな岩がある。辞典によれば、宋代以前にこの貞女を祭った祠ができており、この丘が「望夫石」と名づけられていたという。はるかな海を見ながら、帰らぬ夫を思い続ける妻を、永遠に表彰する石である。 広い国土、長い歴史の間には、同じ嘆きを抱えた妻や親が無数にいた。夫役のため、戦役のため、どれほど多くの男が命を落とし、どれほど多くの女が血の涙をしぼったか。遠くに去る夫を小高い丘の上から見送るうちに、あるいは、毎日山に登って夫の帰りを待つうちに、からだが石になってしまったという伝説が、幾つか昔の本に記録されている。わたしが廟に登ったとき、記憶違いでなければ、「望夫石」の由来の説明には、孟姜女もまた石になったと記されていたのではなかっただろうか。婦人が泣き泣き石になるというのは、およそ悲嘆の極致である。そこまで思われたら、男はもって瞑さなくてはいけない。逆に、男が妻恋いのあまり石になったという話はあるのだろうか。かりになくても、男の情がうすいことにはならない。 ついでながら、婦人が石になる話は日本にも伝わって、日本の伝説と化している。いまの佐賀県北西部のひと松浦佐用姫(まつらさよひめ)は、任那に出陣する夫狭手比古(さでひこ)を領巾振山(ひれふるやま)から見送るうちに、石になったのだそうだ。これを詠んだ川柳に 松浦姫涙がみんな砂利になり はやく帰りなと言い言い石になり といった句がある。わたしはこの話も川柳も、『圓生全集』(青蛙房刊)に収められた落語「狭手彦」で知った。今どきは、佐賀の地元でも忘れられているのではないか。がばいばあちゃんはご存知だっただろうか。ところで、さきの戦時下の日本で、残された妻が石になりでもしたら、貞女烈女とたたえられただろうか。恐らく非国民と罵られただろう。国防婦人会が声高に非難したに違いない。 さて、話は廟に戻る。孟姜女が古くからこの土地に祭られていることが、わたしは不思議で仕方がない。この丘(鳳凰山というそうだ)は行政上は秦皇島市に属し、かろうじて河北省内にあるものの、いまの長城の東に位置するのであって、事実上、遼寧省内にあるといってよい。始皇帝時代の意識でいえば、はるかな地のはて、世界の外のような土地である。そんな地のはてでちょっぴり壁が崩れたところで、始皇帝にはくしゃみ一つ出ない。後世の人はなぜもっと「中央」に近い場所を選ばなかったのか。中原近くで祭っては、歴代王朝に不都合があるのか。また、孟姜女の郷里はどこか知らないが、自身も夫も海を渡ってきたとは聞かない。なのになぜ、かなたの海を見続けることになっているのか。そういう疑問に答える専門書があるはずだが、もう、調べる気がない。 前述の通り、わたしに海は見えなかったが、周りに民家やビルがあるわけではなかった。丘の周辺は広々と広がる農地であり、トウモロコシやコウリャンの波が続いていたのではなかったか。土は明るい赤土であったように思う。空は晴れていたが、澄んではいない。空気の中になにやら捕捉しがたいものが漂っていて、澄明を妨げているような気がした。これは北でも南でも、どこへ行ってもそうだった。まだ大気汚染は深刻ではなかったし、空気が湿っているわけでもないのに、空気自体が微妙に乱反射しているようだった。高層に漂う黄塵や粉塵超微粒子のなせる業かもしれない。廟の北、北西は蛾蛾たる山脈になる。海から発する長城は、その蛾蛾たる山脈の尾根を綴って延びている。まず北へ、そして西へ西へと幾千キロも。 もともと長城のことを書く予定でいた。手始めに山海関の印象を綴るつもりだった。孟姜女廟のことはその前置きのはずだった。だが、前置きが伸びすぎた。ここで切ることにする。 2009.11.15 ご近所まいうー店紹介 東村山 手打ちうどん"きくや" 東村山駅北口より線路沿いに清瀬方向に200メートルほど歩いた所に「きくや」という小さなうどん屋さんがある。当会のグルメの先達に連れてってもらったものだが、たかが"うどん"と言うなかれ、その美味なることに一瞬舌を呑むほどである。カウンターの向うに麺を茹でたり、てんぷらを揚げたりする若いぴちぴちとした美女達の所作も心地よく味をいっそう引き立てる。昼だけの営業のようだが、10席のカウンター、小上がりのテーブル12席はいつも満杯である。近接して3〜4台の専用駐車場も兼備している。近くに国宝「正福寺」、お馴染み「北山公園」があり、腹ごなしに立ち寄るのも一興である。 住所:東村山市諏訪町1-1-3 電話042-396−1150 定休日:日曜日 (比護喜一郎記)
東稲広報室 ○平成23年度新たに7名の方が入会されました。 <編集後記> ●梅雨に洗われて真夏への通路が美しい7月。震災でやや萎縮したかに見えたわが稲門会の活動はダイナミックになってきた。映画鑑賞会をはじめウォーキング、散策山歩き、グルメの会、そして講演会などと力強い。特に映画鑑賞会の人気はますますエスカレートしていくようだ。まさに地域社会に浸透、との思いを実感する●毎年この時期になると住まいの近くの木に小型猛禽、「ツミ」が営巣する。アマチュアカメラマンや観察者たちがいつも数人集まっている。彼らは大声もださず交通の邪魔にならないよう静かに見守っている。そのさなか、つい先ごろの早朝、巣ごと枝を切り落とした心無いもの者がいた。3羽のうち2羽のヒナは発見者の手で木に戻されたが他の1羽の生死はわからない。巣をねらう自分の数倍もあるカラスを果敢においちらすツミ。しかし最大の敵は人間だったとは。この人間のツミは重い●昨夏は暑かった。今年ほど「でんき予報」に切迫した思いをもつ夏もすくないだろう。節電もいいが熱中症には気をつけたい●ひと雨ごとに季節のページがめくられ、早くも暑さの宅配便が届きだした。 (大島勝典)
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