|
||||||||||||||||||||||||||
11月15日(木) 女性サークル 林芙美子記念館見学 (別途案内チラシあり) 11月16日(金) 映画鑑賞会 14:00〜 成美教育文化会館 題名「雨に唄えば」 (別途案内チラシあり) 11月21日(水) 11月お誕生会 17:30〜 東久留米「鮮乃庄」 11月23日(金) 散策山歩きの会 三峯山 (別途案内チラシあり) 11月28日(水) グルメの会 16:00〜 太田晴之助氏宅 (別途案内チラシあり) 12月 2日(日) 役員会 13:00〜 中央公民館 講演会 15:00〜17:00 同 上 演題「大相撲に魅せられて」 第2弾〜紙芝居を一所懸命聴いていた子供の頃〜 講師 呉 淳久氏 (別途案内チラシあり) 12月 2日(日) 役員、部会長、歴代会長忘年会 17:30〜 「川ふじ」 12月18日(火) ウォーキングの会 神奈川宿歴史散策とキリンブルワリーツアー(別途案内チラシあり) 12月19日(水) 12月お誕生会 17:30〜 東久留米「鮮乃庄」 12月28日(金) カラオケの会 18:00〜 滝山「シダックス」 (部会報告に詳細あり) 1月26日(土) 新年会 成美教育文化会館 (別途案内チラシあり) [大学・校友関係] ○早稲田大学創立125周年記念事業募金について 2000年11月から2007年9月まで10回に亘り寄付を行い、合計2,772,150円で終了した。 ○9月1日(土)三多摩稲門会北ブロック主催の「ゼロからの風」には522名が集まった。収益金8万円弱は、モデルとなった鈴木共子さん主幹の「生命(いのち)のメッセージ展」に寄付された。 ○早稲田大学秋季代議員会が9月28日(金)井深大記念ホールで開催され、当会から松崎副会長、平山事務局長、安次峰幹事、山岡幹事が出席した。 ○10月20日(土)ホームカミングデー、稲門祭、21日(日)早稲田大学創立125周年記念式典が行われた。両日とも快晴に恵まれ素晴らしい2日となった。ホームカミングデーには、今年は昭和33年、38年、48年、58年の卒業生が招かれた。 (別途報告あり) ○清瀬、東村山稲門会から総会への参加要請があり、11月10日(土)の清瀬稲門会総会には市川会長、菱山副会長、11月17日(土)の東村山稲門会総会には市川会長、井坂副会長がそれぞれ出席する。 ○平成19年度東京三多摩支部大会が12月9日(日)に西早稲田キャンパス「ガーデンハウス」で開催され、当会から市川会長、菱山、松崎、井坂各副会長、森田、安次峰各幹事が出席する。 [会の報告] ○10月20日(土)稲門祭 前日夕刻より降り出した雨も未明には上がり、当日は秋晴の天気になりました。当稲門会の3人の実行委員は全員、記念品販売・福引き担当となり、当日9時までにキャンパスに集合しました。記念品・福引き班のテントはキャンパス内4ヶ所に設けられ、私達の三多摩ブロックは大隈講堂前のテントを受け持ちました。人気スポットのテントでしたが、来年の稲門祭主幹事ブロックということで希望通りとなりました。 三多摩稲門会から15人前後・学生スタッフ4人、約20人の態勢で臨みました。10時半頃から、来場者の数が少しずつ増え始め、それに伴い私達のテント内も動き出しました。私は当初邪魔にならない様、テントの傍らに立っておりましたが、チケットを買い求める方、記念品・代金・おつり、福引き券の受け渡しでテント内も慌しくなり、急ぎ応援に入りました。昼直前に忙しさも第1次のピークとなり、用意した記念品の一部が品切れとなり、急遽追加を取り寄せなければならなくなりました。キャンパス内では校友講演会が催され、また各種模擬店、国際学生による世界の屋台村の出店、新潟・山形よりの農作物、ワセダグッズ(ラグビージャージー、Tシャツ、角帽、ペナント等)の販売等、更には応援部のチアダンス、ニューオリOBブラスバンド演奏がキャンパス内の賑々しさを一層盛り上げていました。大隈講堂では校友音楽祭が催され、多くの著名ミュージシャン、バンド、楽団が出演し満員の状況でした。大隈庭園内では音楽祭OBバンドの舞台を中心に、それを取り囲むように全国銘酒試飲コーナー、焼鳥、おでん、すし等も屋台が並び、芝生の上で車座になって多くの校友の方々が大いに飲んだり、食べたりしながら旧交を暖めている光景が見られました。1時半頃から私達のテントは再び慌しくなり始めました。記念品・福引きチケットの販売〆切時刻2時が迫って来たため、買い求める人が増えてきたのです。手持ちの記念品があれよあれよという間に品切れ状態となり、他の3テントでの販売を中止し、手持ち商品を全て私達のテントに持ち込んで対応しましたが、定刻2時までには納まらず、結局2時半を過ぎてやっと落ち着きました。高額のお皿3〜4点を除き、残りは全て売り切れとなりました。クジ引き抽選担当の方々には3時までの残り少ない時間内での作業となり、ご苦労をお掛けしたのではないかと思っています。3時から大隈講堂にて抽選が行われ、入場できなかった大勢の人々が講堂前広場に設置された大型スクリーンに見入っていました。私達もテント内からスクリーンを見ていました。クジ引きが進み、最後のA賞ベンツ車の行方を固唾を飲んで見守る中、当選番号が発表されますと大きなどよめきと共に、可愛い坊やが当選者として壇に上がってきました。一瞬誰もが"アレ"と思った様でしたが、少し後から若いお父さんが現われ喜んでいる姿が映し出されました。何ともほほえましい光景に誰もが納得されたのではないでしょうか。テント内のメンバーから、先程チケットを購入された方だという声が上がりました。東村山稲門会は別の車(ホンダ)を抽き当て、代表の実行委員の方は対応に大忙しとなりました。この後も大隈講堂では校友音楽祭が続きましたが、私達の仕事はここで終了となりました。来場された方、運営に携わった方々、それぞれ楽しく充実した一日であったのではないかと思っています。秋晴という絶好の舞台を授けてくれたお天道様に心より御礼申上げます。 (塚越 崇記) ○ 創立125周年記念式典に列席して 10月21日、早稲田大学創立125周年の記念祝典が戸山キャンパス記念会堂で行われた。この日を迎えるためにここ数年並々ならぬ準備が進められていたことは皆承知の通りであるが、それに応えたかのように空高く、青く澄み渡る秋日和であった。 総長を先頭に、各国大学学長が入場され「早稲田の栄光」が演奏されるや厳粛でありながらも祝典らしい華やいだ、明るい雰囲気に満ちて式は進んだ。 白井総長は式辞で、早稲田大学の125年に亘る輝かしい歴史をたたえた。創立者大隈重信侯の「人は125歳まで生きられる」と言う希望に満ちた言葉に因んで、敢えて125周年を節目に、名実共に物心共に新しい時代に相応しい早稲田大学を望み、この日を「第二の建学」と定め、更なる進展・躍進への抱負と方向を示された。それは教育の場面でも研究の場面でも世界に開かれ、また世界的水準に伍してゆくに十分な能力と環境を整えた世界の早稲田を目指して行こうということであった。来賓として出席された福田総理は早稲田の進取の精神と、特に在野精神という校風を多くの卒業生達が持ち続けて社会で立派な役割を果たしていることにふれ祝辞を述べられた。各国大学学長は早稲田の世界における貢献を讃え祝って下さった。大隈講堂前には式典を中継する大画面が設置され式典後、白井総長は各国大学学長と共に講堂前で「早稲田大学第二世紀宣言」をされた。鳩のかたちの風船は、ゆっくりと青空へ飛んでいった。講堂前は前へ進めないほど、動きが取れないほどの人、人、人。今までこれほど多くの人が集まったことがあったであろうか。 都の西北の校歌の大合唱、広場は感動的な、美しい光景であった。前日の稲門祭に続いていろいろなイベントが行なわれ、構内は一日中お祭りムードにつつまれていた。この日に遠方から大学へ来られ、懐かしい友人と会われた方々、校友とその家族、大学の近隣の方々みな楽しい一日であったに違いない。私はこの大学に学んで本当に幸せだったと、その思いをかみしめていた。そして、今日からの第二世紀もますます輝かしい歴史を重ねるに違いない。「早稲田は永遠であるに違いない」と確信した。 (菱山房子記) ○第24回ウォーキングを楽しむ集い
今回は埼京線の指扇駅から高崎線の宮原駅までの9km、途中神社あり、お寺あり、公園ありのコースである。 埼京線で事故があり、指扇駅には予定より少し遅れて着いたが、一行は雲一つない秋空の下、住宅地、農村風景、里山の道をゆっくりと景色を楽しみながらのウォーキングであった。途中には柿の木が多く、真っ赤な柿の実がたわわに実り、それが青空をバックに印象的な情景であった。また、柚の木にも黄色の実が沢山なっており、実りの秋の実感を深めてくれた。最初に立ち寄った秋葉神社は本殿は鉄筋コンクリートで新しくなっており、更にその横に増築の準備がなされていた。清河寺という寺も最近総檜造りで新しくされており、この地区が豊かであることを思わせた。妙玖寺には山内一豊の甥の墓があり、寺の説明書には、一豊の
甥が2000石の領主として指扇の地を治めていた時期があったとい。寺の名はその領主の母親の戒名であるという。 当初の計画では、大宮花の丘公苑での昼食であったが、スタートが遅れたため、途中の秋葉の森総合公園で昼食となった。 大宮花の丘公苑はコスモス、サルビア、ベゴニアが一面に広がり、周辺の人たちの憩いの 場である。広い芝生では子供達が転げ回り、また思い思いの方法で休日の午後を楽しんでいた。 私達一行も満開のコスモスを前に全員で記念写真を撮ったのであった。あとは宮原駅まで歩くだけであるが、途中太田道灌ゆかりの三貫の清水というところに寄った。太田道灌が清水から湧く水を貰ったお礼に金子三貫を与えたという清水で、確かに水は湧いていたが飲もうという気にはならないほど汚れていた。宮原から赤羽に出て赤羽駅のエキナカの居酒屋で打ち上げをやった。大いに盛り上がったことは言うを待たない。 (井坂 宏記) ○映画鑑賞会 9月14日(金)成美教育文化会館にて「マイ・フェア・レディ」を上映した。250人参加。 次回上映 「雨に唄えば」11月16日(金)午後2時〜 於・成美教育文化会館グリーンホール MGMを代表するミュージカル、1952年アメリカの名作。トーキーの時期へ転換したハリウッド。 共演スターのリーナー(ヘイゲン)の愚かしさに嫌気がさしている人気スター、ドン(ジーン・ケリー)はコーラスガールのキャシー(レイノルズ)と知り合い恋に落ちる。 結末は、リーナーの悪声をカバーするため吹替えを努めることになったキャシーがスターに。雨の中でケリーが主題歌を歌い踊る名画面をはじめ、ジーン・ケリーのモダンな演出が群を抜いている。 ミュージカルは1930年代、40年代にフレッド・アステアとジーン・ケリーによって確立され、いわゆるハリウッドミュージカルと云われました。その後はニューヨークのブロードウェイミュージカルに移りましたが、この作品はハリウッドミュージカルの最高峰と云われています。 故淀川長治の映画評論家も前述のジーン・ケリーの歌って踊る名画面を評して、ケリーが亡くなった翌日、新聞でミュージカル上"最高の場面であり、ジーン・ケリーありがとう"という長いコメントを出しました。 (米光慶二郎記) ○お誕生会 9月19日(水)、10月17日(水)東久留米「鮮乃庄」で実施した。出席者9月8名、10月7名。 ○秋の男料理を楽しむ会 10月13日(土)18:00より成美教育文化会館で開催し、約30名が参加した。 [部会報告] ○ゴルフ部会 10月11日(木)秋季ゴルフ部会を玉村ゴルフ場にて開催した。参加者6名。 11月13日(火)稲門会/三田会懇親ゴルフを開催する。 ○囲碁部会 10月28日(日)オール早慶囲碁フェスタが開催された。当会から4名参加した。 (別途報告あり) 11月24日(日)〜25日勝浦で合宿を行う。 ○俳句部会 10月14日(土)〜15日(日)稲取温泉へ吟行した。 (別途報告あり) ○書道部会 9月8日(土)〜9日(日)伊東温泉コマツ保養所にて錬成会を開催した。参加者9名。 10月24日(木)〜28日(日)東久留米市民文化祭に書道部13名が出品した。 11月16日(金)〜18日(日)第4回書道部作品展を成美文化教育会館ギャラリーで開催する。 ○太極拳の集い 9月29日(土)懇親会を実施した。参加者22名。 (別途報告あり) ○カラオケの会 12月28日(金)6:00〜 滝山「シダックス」 会費4,000円 参加希望者は、12月21日までに河村世話人に連絡する。 TEL、FAX 477−3294 ○ラグビー観戦 今後のスケジュールと観戦について (別途案内チラシあり)
太極拳の集い 今年の3月、鮎貝会員、山崎会員のご努力により、太極拳部会は新たに太極拳の集いとして再出発した。再出発に際し、太極拳部会発足当時の会員も多数戻ってきて、会員同士のコミュニケーションもスムーズに出来るようになり、楽しい太極拳の集いとなった。 再出発後6ヶ月経過した時点で、会費にも多少ゆとりが出てきた事もあり、費用の一部を会費から負担する形で成美教育文化会館の一部屋を使ってささやかな懇親会を開催した。 当日はあいにく雨となり、小学校、幼稚園で運動会が中止になったため、欠席するつもりの会員も何人か出席出来て総勢22名となった。料理、ビール、焼酎の他、日本酒、ワインの差し入れもあり会場の時間が許す限り楽しいひとときを満喫した。
囲碁部会 平成19年10月28日(日)正午より、「第46回オール早慶囲碁フェスタ」が開催されました。 既に8月号で詳報した通り、今年は早稲田大学125周年記念大会ということで、例年は各校50名前後の大会でしたが、一挙に「125人対局」となりました。 運営関係者は、人選、会場確保等大変苦労されたようです。特に慶應は出場選手の調達に大変努力されたと聞いています。 当日の会報によると、早稲田161名、慶應155名の参加があり、運営スタッフ、指導碁スタッフ等を加えると331名(当日若干のキャンセルあり)を越える大イベントとなりました。対戦成績は熱戦の末、僅差で慶應に凱歌が上がりました。 当部会からは、苅草八段、小仁井七段、中道六段、辰巳四段が参加、大いに楽しんで来ました。 指導碁は、予定されていた梅沢由香里五段が世界戦の日本代表として中国に行っており、プロ棋士は青葉かおり四段のみとなりましたが、両校囲碁会の現役、OB、OGが充分にカバーし好評でした。 対局終了後、夕刻より懇親会が盛大に執り行われました。 (辰巳徳蔵記) 俳句部会 88回句会 吟行 伊豆城ヶ崎〜稲取温泉郷 10月14日、参加者14名。城ヶ崎、伊豆高原を雨の中散策し、宿で4時より句会。
〈会員リレーエッセイ〉〜噴水広場〜 *前号に引き続き平山正徑会員より提供されたグアム島戦記の後半を掲載します。 これは、前号の平山会員の前書きにもありましたように、平山会員がかつてグアムに勤務していた時 に入手したテープが元になっています。 グアム島戦記(後半) 黒点と見えたるは、グアム島開放軍司令官コノリー提督以下54,891人もの大部隊を満載した、230艘からなる米軍の軍艦と、輸送船団であります。米軍の上陸作戦を迎え撃つ日本守備隊は、高品司令官以下陸軍13,000、海軍5,500、計18,500名でありました。艦砲射撃が一斉に開始されたのが、4時30分だという。徹底的に撃ちまくり爆撃を行ってから、米軍が上陸を開始したのは、午前6時過ぎからだった。上陸地点にはアサン、アガットの両海岸が選ばれた。アガット上陸に参加したのは、アメリカ海兵隊でも最強をもって鳴る第一海兵旅団であった。一斉に上陸用舟艇が波を蹴立ててリーフに近づいてくる、それを目掛けて決死の日本軍は、猛烈に反撃の火蓋を切る、山砲も速射砲も、だが、残念にも日本軍の装備は、米軍のそれと比べて桁違いに貧弱であった。何台かの戦車は沈没させ得ても数十、数百台の戦車が、ひた押しに続々と上がってくる、機関銃の弾などは簡単に跳ね返されてしまう。残るは、日本軍特有の肉弾攻撃、勇敢に爆弾を抱え手榴弾を持って、ゴウゴウとキャタピラの音を立てて進んでくる巨大な戦車に、身体ごとぶつかっていくのだ。日本軍には、援護する一機の飛行機だに無く、僅か160門の火砲で、圧倒的な攻撃力を持った米国と戦わねばならなかったのです。当初立てた水際撃退という作戦は、うたかたの如く費えてしまった。残酷な米上陸軍にとって、グアム島作戦は、もはや戦闘と言えるものではなく、武器を殆ど持たない日本軍を、相手にしての大量虐殺行為だ。射的ゲームに興じる米軍の標的のようなものであった。生きて虜囚のはずかしみを受けず、日本軍人には、降伏という個人の命の尊厳を守る最後の選択が許されてなかったのです。みずみずしいくめのくらがかきしたにうれしかじかみくちひびくわれはわすれじうましやま。(聞いたまま)敷島の大和心を人問はば朝日に匂う山桜花。また、葉隠れに見ゆ武士道とは、死ぬことと見つけたり。これが当時の日本軍人の精神を支えていたものだったのです。圧倒的な米軍を前にし、しかし、日本軍は実に華々しく戦った。1972年、グアムで発見された横井庄一さんが「米軍が上陸してから戦いは、どれ位続いたのですか」という記者団の質問に答えて「戦いは一晩だった、一晩で勝負がついた」「それでは、横井さん達は米軍が上陸した翌日から逃げ回っていたのですか」「逃げ回っていたわけではない、夜襲をやって玉砕した」と答えています。米軍の資料によっても7月21日から翌月8月11日まで激しい戦闘が、随所で行われたということが明らかになっています。20日間日本軍は、強靭な精神力で頑張り続けました。海岸線に布陣した第一戦隊は、無念にも正午までに完全に壊滅しました。第二戦隊陣地は、ここから遥か後方の洞窟内に設けられていました。しかし、肝心の火気をやられてしまっていて、最後の攻撃手段に夜襲が選ばれた。しかし、それも虚しい抵抗でしかなかった。最後に賭けた夜襲が、昼を欺く照明弾によって無残に失敗し、あまたの将兵が枕を並べて討ち死にした。戦場に夜が明ける、屍が痛ましくも累々と連なっている。生き残った将兵は東海岸へと後退してゆく、この中に横井兵長の姿もあった。しかし、彼が何処で戦線から離脱していったのか誰にも分かっていない、彼自身も何故か語ろうとしていない。アサン、アガットの両地点との緒戦に躓いた日本軍が、体制を立て直して再び攻撃を敢行したのが7月25日、しかし、これとても圧倒的火力を持つ射撃の的となるために、わざわざ身をさらしたようなもので、3,500人が祖国防衛の華と散っていきました。高品軍司令官は、ひしひしと迫り来る米軍の攻撃を躱わしながら、後退するアサン、アガットそしてパゴ地区の日本軍に、グアム島北部高原に集結するよう命令を出しました。高品軍司令官は、この作戦中7月28日、壮烈な戦死を遂げたのです。代わってサイパンに帰任出来ずこの地に留まっていた、マリアナ地方軍司令官小畑中将が指揮を取りました。将兵のうち負傷してない者は殆ど居なかった。中には砲弾で片足をもぎ取られながらも、一里半の山道を這って集合地に到着した者もあったのです。途中で多くの重傷者が、痛ましくも息を引き取っていきました。彼らは、この世の最後にせめて一口、清らかな日本の水が飲みたいともらした。米軍は、戦車を先頭にジャングルの中の一本道を突進し、空中観測により正確さを増した砲撃で容赦なく日本軍の命を奪い続けました。8月8日には、日本軍の残存小型戦車10両が、陣を組んで米軍の中型戦車部隊に、最後の決戦を挑みました。だが、装備においてあまりにも力の差がありすぎました。米軍の弾丸は、日本戦車の胴体を撃ち抜き、ことごとく破壊されてしまいました。剛毅で知られた小畑総司令官も、最早これまで10日夜明けを期して最後の突撃を決意、大本営に帰心無く劇的な電報を打ちました。 不肖、軍司令官の責を受け、不眠不休努力せるも武運つたなく常に戦い利非ず、武器壊れ、弾丸尽き、ただ空拳あるのみ、大宮島確保の希望は絶たれんとす、ここに生存者全員と共に最後の決戦を決意す。大宮島玉砕の報により、本国国民の士気喪失せんことを憂るうるのみ、我ら一同の魂は永遠にこの島を守り、皇国の安泰を祈る。本10日12時以降本国との通信を絶つ、生存将兵は一同意気盛んなり。11日、午前7時過ぎ守備隊は機関銃や小銃、最後は肉弾突撃による壮絶な玉砕戦を敢行し、小畑司令官は戦車に包囲され、遂に拳銃で潔く自決し、田村少将、橋田参謀以下の将兵も、次々と無念の戦死を遂げ、ここにグアム守備隊の組織的戦闘は終わったのであります。グアム島攻防戦での人的被害は、日本軍戦死者は10,791人、ジャングルに逃れ後に戦死したと思われる者6,400人、捕虜となり帰還せし者横井庄一も加え1,305人、米軍戦死者1,290人、負傷者5,648人、不明145人、戦闘の最も激しかったと言われるアガットの海岸は、アメリカ海軍の最高指揮官ニミッツ元帥の名を取って、今ではニミッツ公園として生まれ変わり、平和な海水浴場として島民や観光客で賑わっている。 日本軍最後の玉砕地として知られる北部の高原ジーコの地には、現在この島や他の南太平洋の島々で戦死した日本軍の戦死者の霊を弔うために、立派な慰霊塔が建てられ、石碑にREST IN PEACE 安らかに眠れ と刻まれている。戦争の善し悪しは別として、太平洋戦争で勇敢に戦い祖国防衛の礎となった、これら将兵の死を無駄にしてはならない。日米友好を不動のものとすることが、地下に眠る将兵の魂を慰める最善の方法ではあるまいか。今日のグアム島は、何事も無かったように空も、海もあくまでも青く、空気は爽やかに甘く、南国の花々がめくるめくような太陽の下で、強烈にまた可憐に乱れ咲いている。 戦後30年を経て、あの絶望的な敗北感と廃墟から立ち上がり、今や世界の先進国として、尊敬と期待を集めている日本からやって来た、戦争を知らない若者達が、晴れやかな顔で観光を楽しんでいる米領グアム島に、真の平和が訪れたのでありましょう。 了
○当会員野田一博さん夫人まつ子さんの紙彩画遺作展が下記の日時に開催されます。まつ子夫人は3年前に急逝され、今回は野田さんの特に熱く思い入れの込められた遺作展になります。 会員の皆様には、是非ご来場ご高覧頂きたいとご案内お願いを致します。 記 日時 11月11日(日)〜17日(土) 午前11時〜午後6時 最終日 午後4時30分まで 場所 ジェームス ギャラリー 港区芝公園1−2−8 TEL 03−3431−2158 なおお問い合わせは会員野田さんまで (編集後記)○今回は何と言っても創立125周年記念行事でしょう。編集子も卒業45年目ということでホームカミングデーに招待された。記念会堂での式典に出席したが、125年という節目の年に45年目を迎えたという幸運を胸にかみしめた半日であった。○雲一つない秋空の中、ウォーキングを楽しむ会に参加した。真っ青な空に真っ赤な柿が映え、柚の木はたわわに実をつけている道を、神社、お寺を巡りながら大宮花の丘公苑まで歩いた。花の丘公苑では満開のコスモス、サルビアが迎えてくれて、素晴らしいの一語に尽きた。コスモスを揺らす風さへなかりけり(井坂) |