『甲州街道を歩く』第12回(12月10日)JR塩崎駅→韮崎→JR日野春駅

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師走の声を聞いても、例年になく暖かい日が続いていたが、漸く冬の訪れが到来したと感じられる寒さの中、総勢10名(男6、女4)は、特急「あずさ」から乗り継いで、甲府から2つ目のJR塩崎駅に降り立った。
この日の行程は、現在の主要道路である国道20号線に沿ってはいるものの、多くはそれとは少し逸れた県道として残っている甲州道中(旧甲州街道)が対象になっている。そこに立つ建物の鄙びた佇まいを味わい、道から望む山々の景色も楽みながらの、遠足というのがぴったりな長閑さを感じながらのウォーキングであった。また今回は、甲府を過ぎたということもあり、道祖神等はあるものの見るべき旧跡、遺跡もこれまでの道中に比べて乏しく、街道に沿った壮大な崖の連なりや迫りくる山々に囲まれて、自然の懐に抱かれた感じがしたことも印象に残った。
韮崎市に入る市境の塩川に架かる塩川橋の辺りからは、左手間近に、南アルプスの鳳凰三山が迫る。その中の地蔵岳の山頂部にあるオベリスク(地蔵仏)と呼ばれる三角錐の巨大な尖塔が肉眼で見えるようになり、更にその山筋の先に標高2967mに及ぶ三角に尖った甲斐駒ケ岳をはっきりと望めるようになった。また目を正面に転じると、少し遠くに南八ヶ岳の権現岳、編笠山も目に入ってきた。
橋を渡って韮崎市に入り、関東三観音の一つである平和観音の真っ白な立像を右手に見ながら韮崎宿本陣跡の標識を過ぎる頃、小一時間が過ぎたので郷土館の広場を見付けて休憩。甲州道中は、この辺りから右手に小高い崖が迫ってくるようになり、この先ずっと釜無川(かまなしがわ)の流域を通るに従って、右手の「七里岩」と呼ばれる崖も続くことになる。この崖は、日本列島に未だ人が住む前の20万年前に、富士山程の高さだったと言われる八ヶ岳の古阿弥陀岳火山が大崩壊を起こし、一気に1500mも低くなったことによる産物であるという。「韮崎岩屑流」と名付けられており、50㎞に亘って流れ下り韮崎を越えて甲府盆地まで達している。釜無川に沿った街道から見渡すと、高さ100m以上の崖となって、今回のウォーキング中どこまでも続いていた。現在の中央本線、中央自動車道はこの崖の上を走っているが、かって甲州道中を歩いた旅人は、延々と続く七里岩の崖を見上げながら歩いたのであろうと思いを馳せながら我々もウォーキングを進め、七里岩を見上げる公園で昼食をとった。街道の先に目を上げると、大崩壊後の火山活動で出来た権現岳の奥に主峰赤岳を、それらの左側手前には最も新しく出来た(それでも10万年前)編笠山の丸い頂が前より近くなって見えるようになり、自然の営みへの畏敬の念が去来したのは筆者だけではなかったと思われる。
帰路のJR駅に出るにはいずれも100m超の崖を登ることになる。最初にウォーキングを切り上げた組は、辺り一面荒野と言える穴山三軒屋から、1㎞超先のJR穴山駅を目指し、崖に向かう道に分け入った。残りの健脚組は、だらだらと続く20号線沿の旧道を一駅先のJR日野春駅に向けて歩を進めた。崖の上の駅へ登る2㎞超の道路に掛かり始めた時、崖の林の中に「野猿返し」と名付けられた細い急騰の近道を見付けた。汗だくになりながら息を切らせて登り、改めて崖の上から遥かに下を流れる釜無川を眺めやり、その高さを実感する一方、本道を外れた無謀さを思い知った。       部会長 東海俊孝記

七里岩を背に七里岩_岩屑流れ八ヶ岳の遠望

『甲州街道を歩く』第11回 (11月5日)【石和温泉→甲府→竜王】

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今回は、いよいよ甲州道中(江戸時代の名称)の主要地である甲府に歩を進める。総勢9名(男5、女4)でJR石和温泉駅からスタートした。60年近く前に畑地に開かれた温泉場だけに、駅から綺麗に整理された道路を約1㎞歩き、甲州道中に入る。甲府が間近とあって、街道は店並も揃ってきて、街に入ってきていることが分かる。摩利支天尊堂にて休憩をとったところ、丁度、青梅街道追分の交差点があった。内藤新宿で甲州道中から分れ、青梅、大菩薩峠を経て再び甲州道中に合流する両街道の出会いの場であり、「鶴川の渡し」を避ける人々が利用したという。歩みを進めてJR酒折駅に近い辺り、正月の駅伝で有名な山梨大学の近代的な建物とキャンパスが迫ってきて、いよいよ甲府の街に入ってきた感が強くなる。更に進んだ街中にある天正十年(1582)創業の印傳屋では、買い物での物色に勤しんだ。現在の甲府の中核をなす「甲府柳町」の中心に至り、甲府駅に続く大通りを散策しながら、昼食をとるべく「甲州ほうとう」の店を甲府駅近くに見出した。昼時の混雑の為食事に1時間近くを要したが、山梨名物にふうふう言いながら舌鼓を打った。
甲州海道(当初はこう記し、後に甲州道中となった)は、徳川家康が生命線と考えて作った道である。江戸城に危機が迫った際、服部半蔵の手引きで、江戸城半蔵門から甲州海道に入り、内藤新宿で「百人組鉄砲隊」、八王子で「千人同心」を従えて甲府城に入り、富士川の舟運で一気に駿府に抜ける主要路とした。従って、江戸時代の始めは甲府迄の道が整備され、後に下諏訪まで延長されたものである。この歴史を鑑みると、今回の甲府到着で甲州街道を歩く目標の第一は成し遂げたとも言える訳で、一同、或る意味での達成感に浸ったものである。
ほうとうの美味の余韻が残る中、甲府の中心、県庁、市役所のある大通りを散策しながら、次の竜王駅を目指す。途中にある文殊神社に、芭蕉の「物言えば唇寒し秋の風」の句碑を訪ねたが、捨て去られたような有様で、句の有名さに対して思いもよらない句碑の扱いに、心痛むことを禁じえなかった。
竜王新町交差点でウォーキングの切り上げ組が分かれて、JR竜王駅から帰路についた。残りの男5名であと4㎞超先にあるJR塩崎駅を目指した。中央高速道は甲府昭和ICを過ぎると双葉パーキングに向かって急坂になるが、双葉パーキングに隣接して通る塩崎駅への道も、これまでの平坦な道とは異なる相当な急坂であった。坂を登り切った後は、古い街道の名残を感じさせる街並みがある一方で、最近の道路開発とごちゃ混ぜとなった風景もあり、複雑な思いをしながらの最終駅到着であった。帰りの電車では、大月までは乗客が少ないこともあり、甲府駅で買い込んだお酒を楽しむ内に、中央線特別快速への乗り換えとなった。 部会長 東海俊孝記


山梨県庁

ウォーキング&山歩き(第68回)部会活動報告 9月24日 高麗峠(こまとうげ)、巾着田の彼岸花鑑賞

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巾着田_1彼岸花_2IMG_1294

IMG_1301休日で色々お忙しいせいか、今回はご婦人の参加がないこれ迄で初めてのケースとなった男所帯総勢11名。秋分の日にふさわしい天候に恵まれて、飯能駅を10:30に出発。30分程歩いて、市街地を抜けて天覧山の麓の能仁寺の脇を通り、国道299号線に突き当たって、武蔵丘ゴルフの入口と並んだ奥武蔵自然遊歩道の入り口に着いた。
ここからは、林の中のなだらかな登り坂を標高177mの高麗峠を目指して歩く。休日とあって、ハイキングの人達は多かったが、心地よい風が通う木陰の中、所々木々の間にゴルフ場のフェアウェイを覗かせる道は、快適な歩みを提供してくれた。自分が住まいする地の近くにこのような場所があれば、毎日散歩を楽しんで、人生を豊かに過ごすことが出来ると妄想
したのは、筆者だけではないと思う。高麗峠は頂上という趣は全くない通過点という感じであったが、記念に集合写真をとった。ここから巾着田までは長い下り坂が続いたので、逆コースだと多少はシンドイ思いもするなと思う内に、巾着田についた。途中、休憩もとったので、12:00を回っていた。
休日で、売り物の5百万本の彼岸花が盛り(多少盛りが過ぎている所もあったが)とあって、辺り一面を朱色で埋め尽くした広大な花畑を巡って、人が溢れていた。会場が多数用意したベンチやテントは満杯であり、我々は辛うじて脇の土手に隙間を見付けて昼食をとることにした。会場外の酒屋まで飲み物を買いに行き、皆で乾杯したビールは、何と形容したら良いか、えも言われぬとは此の事であった。ここで、暫くの間、酒を飲みながら各自持参の昼食をとり、のんびりとした一時を楽しんだ。この後、改めて花畑を巡り、景色を朱色に染める彼岸花群生の威力を目の当たりにし、「仏教で曼珠沙華(まんじゅしゃげ)と呼ぶこの花の彼方に極楽への入り口があっても不思議でないという思いが掠めた」、というのはチョット大袈裟か。高麗駅から東久留米に帰り、駅前の焼き鳥屋で、恒例の打ち上げを行った。
ウォーキング&山歩き部会長 東海
自然道_広場 自然道_広場
高麗峠 高麗峠
 width=巾着田 昼食

『甲州街道を歩く』第10回(10月15日)JR甲斐大和駅→勝沼→JR石和温泉駅

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朝方は少し肌寒さを感じたが、最高気温22℃、曇り空という絶好の天候の中、総勢10名(男5、女5)は、難関であった笹子峠越えを想い出しながら、中央本線笹子トンネルを過ぎて、甲斐大和駅に降り立った。この日の行程は、前半の長いなだらかな下り坂の後は平坦な道、自動車道路脇の歩道であり、歩く負荷は軽いものの、全行程17㎞を超えるこれまでの最長である。
駅から少し歩いて国道20号に出ると直ぐに鶴瀬から甲州街道となる。広い自動車道路の歩道を行くと、鶴瀬関所跡、鶴瀬宿跡を示す看板を過ぎる。谷の向かい側斜面に中央高速道を高速で走る自動車を見ながら、歩道に沢山落ちている胡桃の実を拾ったりして進んでいる内に、柏尾古戦場跡とその主役近藤勇像に行き会った。慶応4年(1868)、官軍に1時間で粉砕された戦いがこの地で行われたことを知り、幕末の動乱を垣間見た思いがした。この先500mを進み、「ぶどう寺」として有名な大善寺に着いた。養老2年(718)、行基がこの地で修業し、満願の日に右手にブドウを持った薬師如来が現れ、以来この地でブドウは法薬として広く栽培されるようになったという。
甲州街道は、柏尾の交差点で20号線と別れ、県道38号となって勝沼を進む。道の両側は全てブドウ畑で、道に面してブドウ狩りと販売店が数キロに亘って続いていた。途中、武田信玄の伯父信友の家系である勝沼氏の館跡を訪れた。勝沼を一望する高台に、堀跡と発掘された屋敷跡が公園となっていた。広々とした公園に我々しか居ない、ゆったりとした気分の中でとった昼食は美味であった。
殆ど店舗もないという町筋に、古民家を利用した「ほうとう店皆吉」があった。昼食時とは言え平日にも拘わらず行列をなしており、機会があれば訪れてみたいと思ったものである。この店のある等々力から国道411号となった。平坦なかなりの距離を日川に沿って進み、日川橋を渡ってこの地方での大河、笛吹川沿いの道、甲州桃太郎街道に出て更に進む。笛吹橋を渡ると、昭和36年ブドウ畑に突然湧き出した石和温泉郷の東入口であり、漸くこの日のゴールが見えてきた。
近くの川沿いに、笛吹川の名の由来となった「笛吹権三郎像」があった。600年程前のこと、洪水で流された母を日夜探し求め、母の好きだった曲を吹きながらさ迷い歩き、深みにはまり亡くなった男の話が綴られていた。この小さな公園で、ゴールまでの最後歩きに備えて休憩をとり、歩みを再開。16㎞を過ぎて誰もが疲れを否めなくなっていた頃、折しも石和温泉駅まで1㎞の地に足湯があり、短い時間ではあったが、脚を温泉に浸すことによる解放感が疲れを癒してくれた。
石和温泉駅からは、初めての特急、「かいじ」で帰路についた。部会長東海
勝沼氏館跡笛吹権三郎像IMG_1325

『甲州街道を歩く』第9回(9月10日)JR笹子駅→新田下→笹子峠→JR甲斐大和

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笹子峠(標高1,096m)は、甲州街道の江戸と下諏訪のほぼ中間の、黒野田宿と駒飼宿の間にあり、同街道の最大の難所と言われた。
【参考】甲州街道は、大正9年の旧道路法では大月から富士吉田を経由して御坂峠越えとなったが、昭和13年に峠の頂上のほぼ真下を貫く笹子隧道(全長:240m)が開通し、昭和27年の新道路法制定に伴い、国道20号として、御坂峠越えから再び笹子峠越えに変更された。昭和33年には新笹子隧道(トンネル)(全長:2,953m)が開通したことで、国道20号は笹子峠道を通らなくなり、峠道は県道日影笹子線とされた。
猛暑が漸く去った曇り空の下、総勢12名(男7、女5)は、街道の最難関に挑む思いを胸に、JR笹子駅から午前中1本しかないバスで新田下停留所に降り立った。笹子隧道に繋がる道は、今では通る車も殆どないが、狭いながらも舗装され整備されている。往事の甲州街道はこれとは別に、杉林の峠道として残っており、所々に倒木や道端の崩れもある坂道が続く、忘れられた感が否めない佇まいであった。我々は足拵えをしっかりとして山道に臨んだが、江戸時代の草鞋掛けの旅人は苦労したであろうことが偲ばれる難路であった。
途中、出陣の武者が矢を射立てて武運長久を祈ったという「矢立の杉」(山梨県指定天然記念物)で一服。笹子隧道入口付近で県道を横切り、熊出没の看板に、「誰が一番美味そうか」と軽口を叩きながら隧道の真上を目指して急坂を登ると、谷道となったところに笹子峠の道標が建っていた。両側の崖が迫る狭い道端の斜面を背にして、昼食をとりながら、甲州街道ウォーキングの初志成就が手の届く場所に近づいた感を強くした。
峠を越えると、長い下り坂が続いていた。先の台風による傷跡、倒木とがけ崩れで迂回を余儀なくされることもあったが、舗装道路の県道に合流し楽な歩行に移行した頃から、予報よりも早い雨に見舞われた。駒飼宿跡を過ぎる頃には本降りとなり、漸くこの日の目的地甲斐大和駅に辿り着いた。参加者全員が、終結時の雨を忘れさせてくれる、大きな達成感に包まれていた。
東久留米に戻り、全員が参加して笹子峠越え達成の祝杯を挙げた。部会長東海記
【参考】鉄道トンネル(中央本線):
1903年(明治36年)2月 大月-初鹿野(現・甲斐大和)間片側通行開業
1966年(昭和41年)12月新笹子トンネル開通、従来の笹子トンネルは下り列車専用、新笹子トンネルは上り列