第95回 ウォーキング(R6.2.27)【府中 郷土の森博物館の梅園】

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昨年12月の企画時点では、途中にあるサントリービール府中工場を見学し、郷土の森博物館での府中の歴史や地理を見聞してから、観梅を楽しむことにしていたが、サントリーは工場改修で見学受け入れ停止、博物館も改修閉鎖で、梅園だけになり、それだけに梅見への期待を高めてこの日を迎えた。
人口26万人の府中市は、古代の遺跡が多く、また645年の大化の改新後に武蔵国の国府が置かれるなど、古くから政治や経済と文化の中心地として栄えており、江戸時代は甲州街道の宿場の中でも大きな「府中宿」があった。郷土の森博物館自体も大きな施設であるが、周辺に、いこいの村や体育館等々のスポーツ施設が多数あり、財政豊かな市政が窺われる。
府中本町駅に降り立った一行16名(男12女4)は、冬季の関東としては珍しい雨降りが一週間も続いた後の、久々の陽光を浴びての梅見だと意気込んだのですが、嵐のような強風(八王子で史上最高の瞬間風速28.1mだったという)に見舞われてしまい、それでも広大な梅園を歩き巡って、咲き誇る梅の花を楽しみました。梅と言えば、古来より、美しい花と同時にその香も語り伝えられている。「散りぬとも 香をだにのこせ梅の花 こひしき時の思いでにせん(古今集 詠み人知らず)」。本来なら楽しめる筈の馥郁たる「梅の香」であったろうが、強風に飛ばされて、枝一杯に咲く花の美しさだけを愛でて、ここかしこと歩くことになってしまったのが残念である。
梅園の入り口付近に少し低地で吹く風が緩い場所を見つけて、昼食を取った。花見と酒は桜に限らず、梅も同じ花との勝手な理屈をつけて、各自持参した色々な酒にて梅見の杯を交わした。「酒杯(さかずき)に 梅の花浮け思ふどち 飲みての後は散りぬともよし(大伴坂上郎女(いらつめ)万葉集)」。今日の我々の梅見の杯の心と情景を、女性の和歌で、既に万葉の時代に詠っているとは!!!(すごいです)。ちなみに、我らが女性陣は、梅園内に出されたお店で、うどんに舌鼓を打ったそうです。
稲門の大先輩若山牧水は、「梅の花 紙屑めきて枝に見ゆ われのこころのこのごろに似て」と、少し苦しいと思われる心境を梅の花に託して詠っていますが、来年の梅の花もこのようには見ないように、充実した日々を過ごそうと思った次第です。
帰路の途中、府中本町駅の近くの大國魂神社に参詣しました。
東久留米に帰り、昼食の続きも兼ねて、打ち上げに興じた。女性の和歌をなぞって。
                                   東海俊孝 記

郷土の森博物館の梅園

梅見の盃1

梅見の盃2

梅園1

梅園2
梅園3

第94回 ウォーキング(R5.11.14)【菊展覧会巡り:明治神宮・新宿御苑】

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暑い夏が居座り、漸く秋が来たと思った途端、一足飛びに肌寒い冬になったという可笑しな天候が続いた中、一瞬だけ訪れた快晴の気持ち良い青空の下、総勢13人(男9、女4)で、我々の記憶とは異なる、駅建物の景色が一転していた原宿駅に降り立った。
明治神宮への参道では、高く茂った樹々から木漏れ日が降る厳粛な雰囲気に包まれる中を、平日にも拘わらず訪れた大勢の人、それも半分は外国人に混じって歩いた。往時荒れ地のような景観であった野原を、今日の広大、荘厳な鎮守の森に変える活動を始めた百年前の人々の努力に賛辞を惜しまずにはいられない。本殿に近い参道に、各地の菊愛好家から寄せられた菊花壇が設えてあり、歩みを止めてそれぞれに見入った。その中でも人目を引いたのは豪華な懸崖(けんがい)作りであり、両手に余る大きな花の大菊の一団も見事であった。菊花壇を楽しんだ後、本殿に参拝し、北参道を出て、新宿御苑に向かった。
菊と言えば4~5世紀の中国の陶淵明の漢詩が有名であり、勤めを辞めて故郷に帰り、自然と一体になって暮らす心境を、「菊を采る東籬の下、悠然として南山を見る(漢詩飲酒の一節)と詠っているが、自然の中に鑑賞する菊花は、菊花壇を観るものとは全く異なっていたであろう。日本に菊が渡来したのは8~9世紀頃(奈良~平安時代)ということであり、菊の和歌は万葉集には無く、10世紀の古今和歌集まで待たなければならない。百人一首にも選ばれた「心あてに折らばや折らん 初霜のおきまどはせる白菊の花」(凡河内躬恒)は、菊花が世に広まったことを示している。
菊の園芸は室町、江戸時代と発展を遂げ、明治元年には菊が皇室の紋章に定められた。明治神宮の菊花壇は各地からの出典を展示したものであるが、新宿御苑では明治37年から自ら栽培を始め、昭和4年からは観菊会が御苑で行われるようになったという。千駄ヶ谷門から入り、日本庭園に設けられた菊花壇は、素晴らしい!の一言に尽きた。先ず、ピンクの花の大きな外円の中心に真白な花を浮き立たせた露地花壇が、ホー!と驚く顔の客を迎える。野菊が断崖の岩間から垂れ下がっている姿を模した「懸崖作り」の一団に圧倒され、花びらが花の中央を包み込んで咲く大菊の集団に眼を見張り、1株から数百輪の花を半円形に整然と仕立てた「大作り」の前では、美しく且つ大きく迫ってくる迫力に、呆然自失と言っても過言でない感動に浸っていた。
抜けるような青空の下、明治神宮、新宿御苑という都会のオアシスの中で、陶淵明や凡河内躬恒の時代の菊花とは異なる、人手を掛けた素晴らしい菊花を愛でることが出来た幸せは、何物にも代え難いひとときであった。
東久留米に帰り、打ち上げを行った。                  東海俊孝 記

明治神宮

新宿御苑

新宿御苑・大作り花壇

新宿御苑・懸崖造り

いなほ会バーベキュー

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去る11月3日(金)「いなほ会」主催のお見合いパーティーが行われ、当会の河村さんと私がスタッフとしてお手伝いしました。
今回はバーベキューで、好天に恵まれ小金井公園バーベキュー専用エリアに美男9名と美女10名が参加されました。我々スタッフも参加者と同じように食事を楽しみ、お見合いパーティーというより全員で秋の一日を楽しくすごしたようでした。
今回の参加者からカップルが誕生してくれれば嬉しいです。  



                                  山口謙二 記

第93回 ウォーキング (R5.10.24) 【子の権現・竹寺】

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昨年12月の龍崖山、今年5月の関八州見晴台と雨に祟られ中止を続けた山歩きにとって、2年を超える空白を経た久々のチャンスが到来。漸く秋が来たという実感に包まれた好天の下、総勢12人(男11、女1)で西武秩父線西吾野駅から出発した。総歩行距離9㎞、歩行時間3時間、標高差400mを目安とする今回の山歩きは、登り下り共きつい処が多く、少なからぬ方々が参加を躊躇された一方、古希以上で且つ大半が喜寿以上の元気な12名が集い、県道299号線沿いを流れる高麗川の小床橋を渡って登り始めた。
子の権現(標高640m、標高差400m)までの4㎞の杉林の山道は、かなりきつい上り坂が所々に続いてウンザリしたが、木漏れ日を浴びてゆっくりと、十分な休憩を織り交ぜて歩き、何とかガイドブックが表示する時間を少し超える程度、2時間をかけずに制覇。
子ノ権現は、高麗川と名栗川の分水尾根上に祀られる山寺で、正式名称は大鱗山天龍寺である。延喜11年(911年)の創建以来千年以上の歴史を誇る天台宗の古刹だが、権現(ごんげん)即ち日本の地に現れた仏の化身が祀られており、入口には鳥居があり、神仏習合の寺として、今日では足腰守護の神仏として信仰を集めている。参道では、二本杉が聳え、仁王像が迎えてくれ、本堂傍には大草鞋が奉納されていた。本堂裏の急階段を上った鐘楼では、霞む彼方に微かにスカイツリーを望みながら、昼食を楽しんだ。
子の権現からダラダラと3㎞、アップダウンが続く尾根道の林道を歩いて標高差150mを下り、竹寺に辿り着いた。天安元年(857年)、慈覚大師が東国巡礼の際この地で大護摩の秘法を修したのが開山とされ、正式名称は医王山薬寿院八王寺、本尊は牛頭天王*(ごずてんのう、薬師如来の化身:本地仏という)で、神仏習合の寺として知られている。
*日本における神仏習合の神。釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされた。
本殿にあたる牛頭天王社は、幾つかの牛頭天王像に取り囲まれた朱塗りの壮麗な社で、登り口の鳥居に「茅の輪」が設けられていた。スサノオノミコトの日本神話に起源があるといわれる無病息災の祈願、茅で編んだ直径数メートルの輪をくぐり、心身を清めて厄災を払うことをさせて戴いた。
竹寺からは道のり1.6㎞で標高差250mを下る急坂の難所を越えて、最終目的地の小殿バス停に至るが、ここ迄で脚に違和感を抱いた3名が、車で送って戴くという寺の好意に預かることができた。最初の登りで2名が途中棄権していたので、全行程を完遂して歩いたのは女性を含む7名という結果となった。
今回のコースは、ガイドブックでは、初心者向けを多少超える難易度であったが、今後のコース選択では、初心者向け程度に落とすという課題が残った。
打ち上げは、飯能駅の近くで台湾料理に舌鼓を打ったが、帰路の西武線では人身事故で運転中止、飯能に足止めというオマケがついた。 東海俊孝 記


第92回 ウォーキング (R5.9.19) 【向島百花園】

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立秋(今年は8月8日)を過ぎると暑中が残暑になり、9月にはこの言葉も消えてゆくのが常であるが、今年の暑さは9月一杯が残暑というより猛烈な暑中で、秋の訪れを見込んでの企画が真夏の行事となってしまった。総勢14人(男8、女6)で、日暮里から北千住に出て東武スカイツリーラインに乗り東向島迄1時間半。そこから炎天下に徒歩8分で向島百花園に到着。
百花園は、江戸の町人文化が花開いた文化・文政期(1804~1830年)に造られた「民営の花園」で、見所は早春の梅と秋の萩である。「百花園」の名称は、一説で は、「梅は百花に魁けて咲く」という意味でつけられたものといい、入り口には芭蕉の立派な石の句碑「春もやや 景色ととのう 月と梅」が鎮座していた。設立当時の一流文化人達の手で造られた、庶民的で、文人趣味豊かな庭として、小石川後楽園や六義園などの大名庭園とは異なる趣が愛されて来て、民営としての百花園の歴史は昭和13年に東京市に寄付される迄続いた。その後昭和20年3月の東京大空襲により全焼し、それまで遺っていた往時の建物も焼失、イチョウとタブを除き、植物も死滅し、百花園としての継続が難しくなってしまったが、地元の努力もあり、幾度か変転を経ながらも、園内の景観は今なお旧時の趣きを保っている。文人庭の遺構としても貴重なものであり、その景観、遺跡ともに重要であるとして昭和53年に、国の史跡および名勝に指定され今日に至っている。
我々が訪れたのは、一方の見所、「萩まつり」開催中であったが、満開には少し早かったようで、目玉の萩のトンネルも、花がこぼれ散る程には至ってなかったのが残念であった。(花の盛りには少し早かったが、まつりの為に入場無料となった余禄に預かった。)園内には、庭造りに力を合わせた文人墨客たちの足跡も沢山あり、百花園にふさわしい多くの草花木々の中に、芭蕉の句碑を含め、合計29の句碑、石柱が随所に立っている。各自思い思いに園内を散策し、秋というには強すぎる日差しを避けた木陰で、三々五々昼食を楽しんだ。
万葉集で最も多く詠われている花は、萩141首であり、2位梅118首を引き離している。秋の七草は、万葉集に収められている山上憶良が詠んだ下記の2首の歌にちなんでおり、その中で七草の冒頭に萩の花が詠われている。
1.秋の野に 咲たる花を 指折り かき数ふれば 七種(ななくさ)の花
2.萩の花 尾花葛花 瞿麦(なでしこ)の花 姫部志(をみなえし)また藤袴 朝顔の花* 
*当時は未だ現在の朝顔は日本になかったので、「桔梗」と言われている。
「園内には、山上憶良の秋の七草の地植えが楽しめます。」とパンフレットに書かれていたが、その場所では七草は半分程の成長で、憶良の歌碑だけが突出していた。
帰路途中、池袋にて恒例の打ち上げを全員で楽しんだ。       東海俊孝 記
【若山牧水(母校OB)の酒の秀歌】
それほどにうまきかとひとの問ひたらば 何と答へむこの酒の味
人の世にたのしみ多し然れども 酒なしにしてなにのたのしみ