第74回 ウォーキング(R1.9.30)【羽村堰から玉川上水を歩く】活動報告

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多摩川水系は現在でも東京の上水源の1/3ほどを占めている。江戸時代初期の1653年に、江戸市中へ飲料水を供給する上水(上水道として利用される溝渠)が、羽村堰から四谷まで玉川兄弟によって築かれ、今日尚、使用に供されている。我々がお世話になっている生活の水を、多摩川の取水口から流れに沿って訪ねてみようという趣旨をなぞった。
古来、「暑さ寒さも彼岸まで」と言うが、お彼岸を過ぎても夏が居座って、高麗巾着田の彼岸花が例年より2週間も遅く盛りを迎えているとテレビが伝えていた。去年のウォーキングでの、辺り一面紅色に包まれた光景が脳裏を過ぎり、今年の季節の移ろい遅れに、何かがおかしい、生活がシックリこない気持を持った方も少なくないのではないだろうか。
千葉県に多大な被害をもたらせた台風15号の襲来により、当初計画より2旬も延期したにも拘わらず、未だ木陰が恋しい日和の中、総勢12名(男9名、女3名)と少し寂しい人数で、JR青梅線羽村駅に降り立つ。羽村堰まで1㎞弱の下り坂の途中、たまたま「大菩薩峠」で知られる中里介山の墓所がある禅林寺があったので立ち寄った。幕末、虚無にとりつかれた剣士・机竜之助を主人公とし、甲州大菩薩峠に始まる彼の旅の遍歴の連載は約30年にわたり、作者の死とともに未完に終わった。長編の小説を読んだ方は少ないようだが、映画等で物語を知る人は多く、墓所を訪れた我々も何かの感慨を得たようである。
羽村堰は玉川上水の取水口であり、ここから四谷までの全長43km、高低差が92mしか無い為、武蔵野台地の尾根筋を選んで引かれている。測量機器のない昔に、僅かな高低差の工事をどのように行ったのかと、ウォーキング参加者が異口同音に口にしていた。かっては多摩川本流に丸太で水をせき止めた投げ渡し堰が造られたが、明治時代に現在の近代的な設備が完成した。大きな多摩川の流れが二手に分けられて流れて行く様子を、子供のように飽きずに眺めていた人も少なくない。その後、羽村堰から玉川上水の堤の桜並木を歩き、この季節なら日差しを求める筈のところなのに、木陰を求めて昼食をとった。
取水された水の大部分は、取水堰の下流約500メートルに位置する第3水門から埋設鉄管によって山口貯水池(狭山湖)・村山貯水池(多摩湖)へ送水され、最終的には東村山市にある東村山浄水場で利用される。残りの水は武蔵野らしい雑木林の中を、澄んだ状態を保ったまま、ゆったりと下流に向かって流れて行く。流れに沿って緑道を3㎞弱歩き、緑道が切れる部分は福生(ふっさ)駅から拝島駅までJR青梅線に乗って凌いだ。
拝島から再び玉川上水に沿って木陰の道を7㎞弱歩き、今回の最終目的地、西武拝島線の玉川上水駅迄を辿った。行くに沿って、上水の両岸の雑木が幾重にも重なり合い、せり出して、澄んだ流れの水面に映える景観が続くのは、このウォーキングの妙味である。西武拝島線の踏切を越えてからしばらく行くと、右手に昭和の森ゴルフコースの広々とした緑のフェアウエーを遠景しながら進む。その先、西武立川駅に近い辺りでは、戦時中に軍事工場の滑走路の為に蓋が掛けられ暗渠となり、現在開けた公園となっている場所を通る。更に進んで天王橋を過ぎると、玉川上水がサイフォンの原理で残堀川の下を潜っている、川同志の立体交差に興味をそそられ、しげしげと目を凝らしたものである。この辺りでそろそろ疲れてきたのを少し頑張って、国立音大の脇を過ぎると、漸くゴールインとなった。
ここまで流れてきた水は、玉川上水駅付近の清願院橋から300メートルほど下流にある小平監視所で取水されて、東村山浄水場及び現役の農業用水路である新堀用水の双方に送水されている。
東久留米に帰り、恒例の打ち上げを行った。(東海俊孝記)
追:第75回 ウォーキング&山歩き(R1.10.21予定)【高山不動尊から関八州見晴台】は、台風
  19号の影響による登山道の安全性の問題により中止としました。
中里介山の墓
玉川兄弟の銅像前
玉川上水羽村堰_1玉川上水羽村堰近く桜並木_昼食多摩川の原水の流れ図