第97回 ウォーキング(R6.5.23)【早稲田大学キャンパスツアー】

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東久留米稲門会の創立30周年を機に、早稲田大学キャンパスツアーを企画した。
今年は5月に真夏の暑さを味合う気候不順に悩まされているが、この日は運よく暑からず寒からずのウォーキング日和に恵まれて、参加者18名(男16、女2)は各々半世紀に渡る思い出とその変わり様は如何と、胸を躍らせて久しく足が遠のいていた母校を訪れた。
ツアーは、午前中に西早稲田キャンパス(旧理工学部)を観て、徒歩で戸山公園、旧文学部を経て大隈庭園脇の学食で昼食、午後に早稲田キャンパス(本部)の行程である。
東久留米駅から地下鉄副都心線西早稲田駅に直接到着。S44年卒の筆者は、都電が走り、地下鉄東西線が早稲田を通ったばかりの昔日を思い出し、時代の変化を先ず実感。当時、理工学部校舎が敷地に余裕を持って点在していたのが、体育で通ったテニスコートも潰して所狭しと建物が増えた上に、高い建物も目を引いた。学生のガイドが実験、実習や検査の教室、教養の授業、団らんや自習スぺース等を案内してくれたが、高度な勉学の場であることの雰囲気に溢れていた。学生について驚いたのは女性の多さで、理工全体の3割弱に及ぶそうで、リケ女の活躍が期待されていることに現代の趨勢を実感させられた。
次に明治通りを渡り、戸山公園を散策しながら、人工の山ながら東京23区の最高峰の箱根山(44.6m)を登山した後、戸山キャンパス(旧文学部)に至り構内を散策。我々の時代とは及びも着かない立派な学生会館、旧記念会堂を更新し、メイン部分を地下に設置した早稲田アリーナに驚く一方で、国連ビルの象徴には昔を偲ぶこと一しきりであった。
昼食は、三々五々、大隈庭園脇にある昔とは大違いの洒落た現代風な学食で済ませた後、昔と変わらない大隈庭園をゆっくりと散策、都会の一隅の自然に身体を休めた。
早稲田キャンパスツアーは大隈講堂から始まった。米国大統領や総理等賓客が使った控え室に入り感激、講堂の壇上から観客席を見る得難い経験も得た。政経学部の校舎では、旧校舎の上に現在の校舎を継ぎ足して高いビルにした構造と校舎内で稼働するエカレーターに目を見張る。商学部、法学部、教育学部の高く伸びた校舎を観ながら構内を散策すると、ビルの谷間を歩くようであった。これら学部に加えて、社会科学部、国際教養学部と比較的に新しい学部も活発に活動しているとの説明を受け、午前の理工系学部も併せて堂々たる総合大学の実像に触れて早大OBの誇りを再認識した。旧阿部球場跡に立つ巨大で電子化された図書館もそれを象徴する一つと思われた。
建物とは別に、本部でも女子学生の多さに驚き、我々の時代は教育学部と文学部を除いて女性がチラホラであったキャンパスの景色に隔世の感を抱いた。早慶戦の応援席での「花は桜木、男は早稲田」という幟は過去の遺物となっていた。大学入試の偏差値が高止まりしているのは4割に迫る女学生の増加が寄与しているという説もむべなるかなと思われた。早稲田大学第二校歌の人生劇場の主人公は「生まれは正しき郷士にして、一人男子(おのこ)に生まれたる 宿世の縁の哀れさや 浮きたつ夢に誘われて 一人旅立つ東京の 学びの庭は早稲田なり」と詠い上げたのだが、半世紀の間にそうした男のイメージは悄然と消え去ったようである。
東久留米に帰って、半世紀の昔を思いやりながら、大々的な打ち上げを行った。                                           
                                    東海 記

西早稲田キャンパス教室内

箱根山

大隈講堂前

大隈公の銅像

ガイドの学生と

30周年記念コンサートと親睦会

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当会の設立30周年を記念して、コンサートと親睦パーティーを催しました。
コンサートは早稲田大学の合唱団と交響楽団をお招きして、まろにえホールで行いました。前日の雨とはうって変わった晴天に恵まれ、440人のお客様のほか、市内の25人の中学生達にもお越しいただきました。
添付のチラシのように、難しい曲を避け親しみやすい曲・お馴染みの曲を選んだことも幸いしてか、皆様には喜んでいただけたようです。
コンサートの後、場所を成美会館に移して夕刻から会員とご家族約60人に参加していただき、地元の和太鼓クラブの方々による迫力ある演奏を楽しみながら、親睦を深めることができました。

30周年コンサートチラシ(本番)修正版20240318
                                  山口謙二 記

ボッチャくるめカップ優勝

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19チームが戦った「第3回ボッチャくるめカップ」、ボッチャ部会の「坊ちゃんズCチーム」が優勝しました。おめでとお~!!

                                          
                                 (坂井 記)

2024年春季6大学野球早慶戦

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6月1日、神宮球場で早慶戦第1回戦を応援席最前列で観戦、完全優勝しました。


                               (山口 代)

第96回 ウォーキング(R6.4.2)【殿ヶ谷戸庭園と野川河原での花見】

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この企画は、桜の開花予想を睨んで、当初3月26日に設定したが、思いもよらぬ3月に入っての寒冷気候の停滞の中、開花予想が日を追って遅くなり、1週間延期とせざるを得なくなった。それでも尚気温は高まらず、雨がうち続き、今年の花見は出来ないと諦めかけていたところに、奇跡が起こった。4月に入り急激な暖気の訪れと共に桜のつぼみが急速に膨らみ、垂れ込めた空模様も、実施日の2日だけが青空を見せてくれ、最高のウォーキングと花見となった。
開催日延期もあり、12名(男10、女2)と少し寂しい参加者で、西武線を乗り継ぎ、国分寺駅近接の殿ヶ谷戸庭園から歩を開始した。
国分寺市は、武蔵野台地の南端に位置し、古多摩川の浸食によって形成された数段の段に跨っており、各段丘の縁端は段差数メートル程度のちょっとした崖で、そこに湧水が湧く地について武蔵野の方言で「ハケ」と呼ぶ。また、段丘の縁端に沿って延々と続くこうした崖の様子は、学術的には崖線(がいせん)と呼ばれている。殿ヶ谷戸庭園はこの国分寺崖線の南側斜面に位置し、湧水と植生を巧みに生かした和洋折衷の回遊式林泉庭園である。元々は大正2年に作られた別荘で、昭和4年に三菱財閥の岩崎家の所有となり、昭和49年に東京都が購入し都立公園として開放された。青い空の下、僅かに咲き残るカタクリを探したり、湧水を集めた池を巡ったり、春まだ浅く花の乏しい庭園内を登り下りし、先達が別荘地として愛した素晴らしい趣きに浸ったひと時であった。
庭園の南側に降り、今は辺り一帯が住宅地となっている風景の中、再び崖線を登って下方に広がる展望を見やっているうちに、道は「はけ」へと降りて、その先長く続く崖線に沿って進み、川幅を広げた野川に辿り着いた。国分寺駅近くの日立製作所中央研究所の庭園を主源流として、始めの細い川筋経て、東京経済大学の足元辺りから川らしい様相を見せ始め、貫井神社に至る辺りからは両岸に遊歩道が整備され、川の堤は桜並木となっている。「はけ」を歩いて来て閉ざされた感のあった視界が一瞬で開け、ピンクに覆われた川がずっと先まで続いていた。万朶の桜に囲まれて続く河原に憩いの場を見つけ、うららかな日差し包まれて弁当を広げ、咲き誇る花に称賛の思いを込めて祝杯を捧げた。
桜花の訪れに接すると、多くの人々に、正月とは違った、年が流れて行くという想いをもたらせるようである。近年、開花時期が早くなっていたのが、久々に年度が改まる4月に花の盛りがずれた事が、往時の入学式や入社式の想い出を一瞬頭に過らせた。様々なことが走馬灯のように頭の中を巡って行く感覚は、歳を重ねるにつれて強くなり、「さまざまの 事おもひ出す 桜かな(芭蕉)」の名句を、身に沁みて実感するのは、こうしたことがあるからなのだろう。
今年の桜は4月の声を聞き一遍に咲き、雨の中で直ぐに姿を消してしまった。「さくらさくらさくら咲き始め咲き終わりなにもなかったような公園(俵万智)」。現代の人気歌人は、口語の軽快な文体で、盛りの桜の華麗とそれが終わった空虚を簡潔に詠っているが、古今和歌集以来の桜への日本人の思いを、さまざまのことをおもひ出しながら、伝えているのだろうか?
花見の後、国分寺崖線の緑に覆われて、周囲からの湧水の池が美しい、貫井神社を参詣。再び崖線の下を歩いて、滄浪泉園の脇を登って再び崖線の上に出て、最終地、武蔵小金井駅に着いた。
武蔵小金井では、昼食時の祝杯の続きで、打ち上げを行った。                                                              
                                    東海 記

殿ヶ谷戸庭園

殿ヶ谷戸庭園の池

野川の河原での花見

野川の河原での花見2

野川全景1

野川全景2

野川全景3