第96回 ウォーキング(R6.4.2)【殿ヶ谷戸庭園と野川河原での花見】

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この企画は、桜の開花予想を睨んで、当初3月26日に設定したが、思いもよらぬ3月に入っての寒冷気候の停滞の中、開花予想が日を追って遅くなり、1週間延期とせざるを得なくなった。それでも尚気温は高まらず、雨がうち続き、今年の花見は出来ないと諦めかけていたところに、奇跡が起こった。4月に入り急激な暖気の訪れと共に桜のつぼみが急速に膨らみ、垂れ込めた空模様も、実施日の2日だけが青空を見せてくれ、最高のウォーキングと花見となった。
開催日延期もあり、12名(男10、女2)と少し寂しい参加者で、西武線を乗り継ぎ、国分寺駅近接の殿ヶ谷戸庭園から歩を開始した。
国分寺市は、武蔵野台地の南端に位置し、古多摩川の浸食によって形成された数段の段に跨っており、各段丘の縁端は段差数メートル程度のちょっとした崖で、そこに湧水が湧く地について武蔵野の方言で「ハケ」と呼ぶ。また、段丘の縁端に沿って延々と続くこうした崖の様子は、学術的には崖線(がいせん)と呼ばれている。殿ヶ谷戸庭園はこの国分寺崖線の南側斜面に位置し、湧水と植生を巧みに生かした和洋折衷の回遊式林泉庭園である。元々は大正2年に作られた別荘で、昭和4年に三菱財閥の岩崎家の所有となり、昭和49年に東京都が購入し都立公園として開放された。青い空の下、僅かに咲き残るカタクリを探したり、湧水を集めた池を巡ったり、春まだ浅く花の乏しい庭園内を登り下りし、先達が別荘地として愛した素晴らしい趣きに浸ったひと時であった。
庭園の南側に降り、今は辺り一帯が住宅地となっている風景の中、再び崖線を登って下方に広がる展望を見やっているうちに、道は「はけ」へと降りて、その先長く続く崖線に沿って進み、川幅を広げた野川に辿り着いた。国分寺駅近くの日立製作所中央研究所の庭園を主源流として、始めの細い川筋経て、東京経済大学の足元辺りから川らしい様相を見せ始め、貫井神社に至る辺りからは両岸に遊歩道が整備され、川の堤は桜並木となっている。「はけ」を歩いて来て閉ざされた感のあった視界が一瞬で開け、ピンクに覆われた川がずっと先まで続いていた。万朶の桜に囲まれて続く河原に憩いの場を見つけ、うららかな日差し包まれて弁当を広げ、咲き誇る花に称賛の思いを込めて祝杯を捧げた。
桜花の訪れに接すると、多くの人々に、正月とは違った、年が流れて行くという想いをもたらせるようである。近年、開花時期が早くなっていたのが、久々に年度が改まる4月に花の盛りがずれた事が、往時の入学式や入社式の想い出を一瞬頭に過らせた。様々なことが走馬灯のように頭の中を巡って行く感覚は、歳を重ねるにつれて強くなり、「さまざまの 事おもひ出す 桜かな(芭蕉)」の名句を、身に沁みて実感するのは、こうしたことがあるからなのだろう。
今年の桜は4月の声を聞き一遍に咲き、雨の中で直ぐに姿を消してしまった。「さくらさくらさくら咲き始め咲き終わりなにもなかったような公園(俵万智)」。現代の人気歌人は、口語の軽快な文体で、盛りの桜の華麗とそれが終わった空虚を簡潔に詠っているが、古今和歌集以来の桜への日本人の思いを、さまざまのことをおもひ出しながら、伝えているのだろうか?
花見の後、国分寺崖線の緑に覆われて、周囲からの湧水の池が美しい、貫井神社を参詣。再び崖線の下を歩いて、滄浪泉園の脇を登って再び崖線の上に出て、最終地、武蔵小金井駅に着いた。
武蔵小金井では、昼食時の祝杯の続きで、打ち上げを行った。                                                              
                                    東海 記

殿ヶ谷戸庭園

殿ヶ谷戸庭園の池

野川の河原での花見

野川の河原での花見2

野川全景1

野川全景2

野川全景3

第95回 ウォーキング(R6.2.27)【府中 郷土の森博物館の梅園】

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昨年12月の企画時点では、途中にあるサントリービール府中工場を見学し、郷土の森博物館での府中の歴史や地理を見聞してから、観梅を楽しむことにしていたが、サントリーは工場改修で見学受け入れ停止、博物館も改修閉鎖で、梅園だけになり、それだけに梅見への期待を高めてこの日を迎えた。
人口26万人の府中市は、古代の遺跡が多く、また645年の大化の改新後に武蔵国の国府が置かれるなど、古くから政治や経済と文化の中心地として栄えており、江戸時代は甲州街道の宿場の中でも大きな「府中宿」があった。郷土の森博物館自体も大きな施設であるが、周辺に、いこいの村や体育館等々のスポーツ施設が多数あり、財政豊かな市政が窺われる。
府中本町駅に降り立った一行16名(男12女4)は、冬季の関東としては珍しい雨降りが一週間も続いた後の、久々の陽光を浴びての梅見だと意気込んだのですが、嵐のような強風(八王子で史上最高の瞬間風速28.1mだったという)に見舞われてしまい、それでも広大な梅園を歩き巡って、咲き誇る梅の花を楽しみました。梅と言えば、古来より、美しい花と同時にその香も語り伝えられている。「散りぬとも 香をだにのこせ梅の花 こひしき時の思いでにせん(古今集 詠み人知らず)」。本来なら楽しめる筈の馥郁たる「梅の香」であったろうが、強風に飛ばされて、枝一杯に咲く花の美しさだけを愛でて、ここかしこと歩くことになってしまったのが残念である。
梅園の入り口付近に少し低地で吹く風が緩い場所を見つけて、昼食を取った。花見と酒は桜に限らず、梅も同じ花との勝手な理屈をつけて、各自持参した色々な酒にて梅見の杯を交わした。「酒杯(さかずき)に 梅の花浮け思ふどち 飲みての後は散りぬともよし(大伴坂上郎女(いらつめ)万葉集)」。今日の我々の梅見の杯の心と情景を、女性の和歌で、既に万葉の時代に詠っているとは!!!(すごいです)。ちなみに、我らが女性陣は、梅園内に出されたお店で、うどんに舌鼓を打ったそうです。
稲門の大先輩若山牧水は、「梅の花 紙屑めきて枝に見ゆ われのこころのこのごろに似て」と、少し苦しいと思われる心境を梅の花に託して詠っていますが、来年の梅の花もこのようには見ないように、充実した日々を過ごそうと思った次第です。
帰路の途中、府中本町駅の近くの大國魂神社に参詣しました。
東久留米に帰り、昼食の続きも兼ねて、打ち上げに興じた。女性の和歌をなぞって。
                                   東海俊孝 記

郷土の森博物館の梅園

梅見の盃1

梅見の盃2

梅園1

梅園2
梅園3

第94回 ウォーキング(R5.11.14)【菊展覧会巡り:明治神宮・新宿御苑】

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暑い夏が居座り、漸く秋が来たと思った途端、一足飛びに肌寒い冬になったという可笑しな天候が続いた中、一瞬だけ訪れた快晴の気持ち良い青空の下、総勢13人(男9、女4)で、我々の記憶とは異なる、駅建物の景色が一転していた原宿駅に降り立った。
明治神宮への参道では、高く茂った樹々から木漏れ日が降る厳粛な雰囲気に包まれる中を、平日にも拘わらず訪れた大勢の人、それも半分は外国人に混じって歩いた。往時荒れ地のような景観であった野原を、今日の広大、荘厳な鎮守の森に変える活動を始めた百年前の人々の努力に賛辞を惜しまずにはいられない。本殿に近い参道に、各地の菊愛好家から寄せられた菊花壇が設えてあり、歩みを止めてそれぞれに見入った。その中でも人目を引いたのは豪華な懸崖(けんがい)作りであり、両手に余る大きな花の大菊の一団も見事であった。菊花壇を楽しんだ後、本殿に参拝し、北参道を出て、新宿御苑に向かった。
菊と言えば4~5世紀の中国の陶淵明の漢詩が有名であり、勤めを辞めて故郷に帰り、自然と一体になって暮らす心境を、「菊を采る東籬の下、悠然として南山を見る(漢詩飲酒の一節)と詠っているが、自然の中に鑑賞する菊花は、菊花壇を観るものとは全く異なっていたであろう。日本に菊が渡来したのは8~9世紀頃(奈良~平安時代)ということであり、菊の和歌は万葉集には無く、10世紀の古今和歌集まで待たなければならない。百人一首にも選ばれた「心あてに折らばや折らん 初霜のおきまどはせる白菊の花」(凡河内躬恒)は、菊花が世に広まったことを示している。
菊の園芸は室町、江戸時代と発展を遂げ、明治元年には菊が皇室の紋章に定められた。明治神宮の菊花壇は各地からの出典を展示したものであるが、新宿御苑では明治37年から自ら栽培を始め、昭和4年からは観菊会が御苑で行われるようになったという。千駄ヶ谷門から入り、日本庭園に設けられた菊花壇は、素晴らしい!の一言に尽きた。先ず、ピンクの花の大きな外円の中心に真白な花を浮き立たせた露地花壇が、ホー!と驚く顔の客を迎える。野菊が断崖の岩間から垂れ下がっている姿を模した「懸崖作り」の一団に圧倒され、花びらが花の中央を包み込んで咲く大菊の集団に眼を見張り、1株から数百輪の花を半円形に整然と仕立てた「大作り」の前では、美しく且つ大きく迫ってくる迫力に、呆然自失と言っても過言でない感動に浸っていた。
抜けるような青空の下、明治神宮、新宿御苑という都会のオアシスの中で、陶淵明や凡河内躬恒の時代の菊花とは異なる、人手を掛けた素晴らしい菊花を愛でることが出来た幸せは、何物にも代え難いひとときであった。
東久留米に帰り、打ち上げを行った。                  東海俊孝 記

明治神宮

新宿御苑

新宿御苑・大作り花壇

新宿御苑・懸崖造り

いなほ会バーベキュー

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去る11月3日(金)「いなほ会」主催のお見合いパーティーが行われ、当会の河村さんと私がスタッフとしてお手伝いしました。
今回はバーベキューで、好天に恵まれ小金井公園バーベキュー専用エリアに美男9名と美女10名が参加されました。我々スタッフも参加者と同じように食事を楽しみ、お見合いパーティーというより全員で秋の一日を楽しくすごしたようでした。
今回の参加者からカップルが誕生してくれれば嬉しいです。  



                                  山口謙二 記

第93回 ウォーキング (R5.10.24) 【子の権現・竹寺】

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昨年12月の龍崖山、今年5月の関八州見晴台と雨に祟られ中止を続けた山歩きにとって、2年を超える空白を経た久々のチャンスが到来。漸く秋が来たという実感に包まれた好天の下、総勢12人(男11、女1)で西武秩父線西吾野駅から出発した。総歩行距離9㎞、歩行時間3時間、標高差400mを目安とする今回の山歩きは、登り下り共きつい処が多く、少なからぬ方々が参加を躊躇された一方、古希以上で且つ大半が喜寿以上の元気な12名が集い、県道299号線沿いを流れる高麗川の小床橋を渡って登り始めた。
子の権現(標高640m、標高差400m)までの4㎞の杉林の山道は、かなりきつい上り坂が所々に続いてウンザリしたが、木漏れ日を浴びてゆっくりと、十分な休憩を織り交ぜて歩き、何とかガイドブックが表示する時間を少し超える程度、2時間をかけずに制覇。
子ノ権現は、高麗川と名栗川の分水尾根上に祀られる山寺で、正式名称は大鱗山天龍寺である。延喜11年(911年)の創建以来千年以上の歴史を誇る天台宗の古刹だが、権現(ごんげん)即ち日本の地に現れた仏の化身が祀られており、入口には鳥居があり、神仏習合の寺として、今日では足腰守護の神仏として信仰を集めている。参道では、二本杉が聳え、仁王像が迎えてくれ、本堂傍には大草鞋が奉納されていた。本堂裏の急階段を上った鐘楼では、霞む彼方に微かにスカイツリーを望みながら、昼食を楽しんだ。
子の権現からダラダラと3㎞、アップダウンが続く尾根道の林道を歩いて標高差150mを下り、竹寺に辿り着いた。天安元年(857年)、慈覚大師が東国巡礼の際この地で大護摩の秘法を修したのが開山とされ、正式名称は医王山薬寿院八王寺、本尊は牛頭天王*(ごずてんのう、薬師如来の化身:本地仏という)で、神仏習合の寺として知られている。
*日本における神仏習合の神。釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされた。
本殿にあたる牛頭天王社は、幾つかの牛頭天王像に取り囲まれた朱塗りの壮麗な社で、登り口の鳥居に「茅の輪」が設けられていた。スサノオノミコトの日本神話に起源があるといわれる無病息災の祈願、茅で編んだ直径数メートルの輪をくぐり、心身を清めて厄災を払うことをさせて戴いた。
竹寺からは道のり1.6㎞で標高差250mを下る急坂の難所を越えて、最終目的地の小殿バス停に至るが、ここ迄で脚に違和感を抱いた3名が、車で送って戴くという寺の好意に預かることができた。最初の登りで2名が途中棄権していたので、全行程を完遂して歩いたのは女性を含む7名という結果となった。
今回のコースは、ガイドブックでは、初心者向けを多少超える難易度であったが、今後のコース選択では、初心者向け程度に落とすという課題が残った。
打ち上げは、飯能駅の近くで台湾料理に舌鼓を打ったが、帰路の西武線では人身事故で運転中止、飯能に足止めというオマケがついた。 東海俊孝 記