ウォーキング&山歩き(第66回)6月4日 水元公園、しばられ地蔵、柴又帝釈天

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水元公園は、小合溜(こあいだめ)という水害防止及び灌漑用水を調整する遊水地を中心とした都内最大の水郷公園で、その中にある花菖蒲園は都内第一といわれる。園内には他に、桜、メタセコイヤ、ポプラ、オニバスを始めとする多種多様な植物が育っている。この地域は元々、古利根川の河川敷であり、1940年に紀元2600年事業のひとつとして水元緑地が計画され、太平洋戦争による中断を経て、1965年4月1日に水元公園として開園した。(総面積93㌶強)
季節的に一足早い真夏を思わせる日差しの中、千代田線金町駅を総勢20名(男13、女7)で出発、約2㎞を歩き水元公園に到着。広大な園内を散策する便宜より、昼食を含む2時間の自由行動とした。
目当ての花菖蒲は真っ盛りで、100種、14,000株は見応え十分であった。ところで、いずれ劣らぬ美人二人がいる時に使う「いずれがあやめ、かきつばた」という語があるが、関係すると思われる植物を整理すると、(1)菖蒲湯に入れる「菖蒲」(2)「花菖蒲」(3)「あやめ」(漢字で書くと菖蒲)(4)「かきつばた」(杜若)の4つがある。万葉の頃は「かきつばた」が読まれ、「菖蒲」というと(1)の葉菖蒲のことであり、「花菖蒲」が文献に出てくるのは江戸時代からで、それ以降これらの語が混同して使われて今日に至ったという。植物学的には、(1)はサトイモ科で別物、(2)と(3)と(4)は全てアヤメ科で同じ仲間だが、花びらの柄、咲く場所、背丈、咲く時期等が異なる。今回は、最も背丈が高く、咲く時期が一番遅い「花菖蒲」が色とりどりに一面に咲き誇る中を巡り歩いた。「はなびらの垂れて静かや花菖蒲」という虚子の句も思い出されたが、静かさよりも、美を競い合う花の極みを堪能した感が印象的であった。
メタセコイヤの林、ポプラ並木等へも足を運び、ウォーキングも十分に楽しんだ。
金町駅へ帰る途中南蔵院に立寄り、大岡裁きの講談で有名な「しばられ地蔵」を参詣した。(現在では、縄で地蔵をしばると願いが叶うと言われている)
この後、柴又帝釈天を参詣、金町駅から1㎞強の道程を、ウォーキングと京成電車利用に別れて向かった。平日でも参詣人で溢れる参道では両側に続くお店を楽しみ、柴又駅前では寅さんと妹さくらの銅像に映画の人気を思い知った。
東久留米に帰り、14名の参加を得て、大々的に打ち上げを行った。
部会長東海俊孝記
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ウォーキング&山歩き(甲州街道を歩く)5月21日猿橋、大月、初狩(13.6㎞)

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総勢11名(男6、女5)の参加を得て、中央本線鳥沢駅から出発、先ずは平坦な自動車道に沿って4㎞半ばを歩き、名勝猿橋に到着。猿橋は橋脚を使わずに両岸から張り出した四層のはね木で橋を支え、日本三大奇橋に挙げられている。(他は、周防の「錦帯橋」、木曽の「波計の桟(はばかりのかけはし)」)。橋を渡る時は気付かないが、橋から下って橋を見上げると、橋脚のない構造にえも言われぬ感動を覚えた。また、橋の掛かる深い渓谷を下って遠景すると、青い清流の美しさに橋の掛かった構図の素晴らしさに暫しくぎ付けとなった。月曜日ということもあってか、観光客も我々以外に殆どおらず、ゆっくりと辺りを散策することができた。橋の南詰には芭蕉の句碑「枯れ枝に鴉のとまれけり秋の暮」があったが、句碑の字は読むのが難しい状態であったのが残念である。
歴史上、猿橋の地は武田信虎(信玄の父)と上杉憲房の合戦(1524年)を始め、戦略の要地であったが、江戸時代に入り甲州道中の要衝となると、多くの文人墨客がこの絶景に杖を止め、作品を残している。
猿橋から桂川を遡り、右岸に岩殿城(標高634m、武田24将の小山田信茂の居城で関東三城の一つ)を見ながら駒橋宿跡を過ぎ、国道20号に沿って、大月の街に進み、三々五々に分かれて食堂に入り昼食をとった。山梨の名物「ほうとう」を食べた人が多かったようである。
午後は更にひたすら国道20号を進み、下花咲宿跡では星野本陣跡の建物を見て、上花咲宿跡を過ぎて、今回の終着点初狩駅に辿り着いた。上花咲宿跡からの4㎞は全て登り坂で、舗装された歩道を車と一緒に歩くのは余り楽しいものではなかったが、折からの心地よい風にも助けられて、皆んな頑張って歩き通していた。 
東久留米に帰り、希望者で恒例の打ち上げを行った。  部会長:東海俊孝記
駒橋宿跡

猿橋

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猿橋遠景2

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東稲ニュース No.100 アップしました

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東稲ニュース_100号

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甲州街道を歩く 第6回(H30.4.16)野田尻宿、犬目宿、下鳥沢宿 14.6㎞

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JR上野原駅からJR鳥沢駅に至る今回のウォーキングは、全て現在の甲州街道(国道20号)と離れたルートで、自動車も少ない旧街道である。上野原の街中を出ると、道は曲がりくねり、アップダウンの連続で平地が殆ど無い昔ながらの道中を、総勢9名(男5、女4)は、天候に恵まれて、江戸時代の人々宜しく、長い道程を歩いた。往事の宿場の跡には集落があり、家々の表札に名字と共に屋号が記されているのが昔日の面影を残していた。集落を外れると、舗装されているものの昔ながらの街道であり、所々春の花が咲いている、そういった環境の中で旧街道の雰囲気を楽しみながら、最終地点に辿り着いた。途中、ごく僅かであったが、林の中に石畳の道も残っていた。また、集落内では、都会と違って隣家との距離が十分ある家々の、道に面して植えられている、色とりどりの花の美しさが非常に印象的であった。
別に記憶に残ったのは、武田信玄が小田原北条氏に備えて築いた長峰の砦跡の碑が道端にポツンとある傍にあった、松尾芭蕉の「古池や かわず飛び込む 水の音」の句碑である。 
恒例の打ち上げを東久留米に帰って行った。  ウォーキング部会長 東海俊孝
鶴川宿大椚一里塚跡野田尻宿石畳の道IMG_0959IMG_0969

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甲州街道を歩く 第5回(H30.3.19)小仏峠を越えて与瀬宿(相模湖駅)へ

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靖国神社の桜の開花が告げられる良い天気が続く中、NHK天気予報は1週間前から前日まで「曇り時々雨」のままで変わらず、峠越えをやれるのか気を揉んだ日々が続いた最後に、漸く「昼は曇り」という予報を得てウォーキング実施に漕ぎつけた。総勢9名(男5、女4)で高尾駅に降り立つと、バス停は我々と同じ年恰好のウォーキング姿の人達で溢れていたのにびっくり。ウィークデーにも拘わらずの賑わいは、小仏峠登り口近辺の梅園が目当てと後で分かったが、途中狭い上り坂を走るバスの両側のあちこちでも目にした、満開の梅による白、ピンク、赤に彩られた景色は素晴らしかった。
標高648mの小仏峠は、奈良時代の僧行基が峠に一寺を建て、一寸八分の小さな仏を安置したことから名付けられたと言われる。その旧甲州街道の難所だった小仏峠は、江戸時代には甲州街道(当時は甲州道中といった)のルートに指定され、交通の要所となって通行が盛んになり、甲斐国と武蔵国・相模国を結ぶ要路として、麓には小仏関所が置かれた。しかし勾配が急で車道化が困難であったため、1888年(明治21年)に当時の国道(現在の国道20号)は大垂水峠を経由するルートへ変更され、これによって小仏峠を通る通行者は激減した。
登り口である小仏からは300mに満たない標高差を2㎞半程度で登る峠道でも、日常坂や階段を登っていない我々には、かなりの負荷であり、九十九折の小仏峠東坂の急坂を、息を切らせて登って漸く頂上に辿り着いた。頂上は小さな広場で幾つかのテーブルが置かれ、これを囲んで昼食をとったが、運動の後の食事は美味であった。峠頂には、「明治天皇小佛峠御小休所趾及御野立所」碑があり、2人並んで歩くのが無理な山道を、高貴な方がどのように登られたのかが話題となった。小原宿を経て与瀬宿(相模湖駅)へ続く小仏峠西坂は、登りの倍近い距離の下り坂であり、後で少なからぬ人達が「足が痛い」と訴えることとなった。こうした難路を踏破した後、振り返って、江戸・明治の人々の道行きの苦労を思い知った。
平地に出て、中央高速の高架を遥かに見上げて歩き、国道20号に沿って小原宿を過ぎた。ここには、神奈川県下に26軒あった本陣の中で唯一現存する「清水本陣」(重要文化財)があるが、折悪しくも休館日の為、立派な門を眺めたに留まった。江戸時代末期、本陣1、脇本陣1、旅籠7、問屋1を誇った宿並は明治28年の大火で灰塵に帰したとのことで、今では小原宿標柱から往事を想像するだけであった。更に進むと相模湖のダムが正面から間近に見えてきて、そこを過ぎるとJR相模湖駅だった。
恒例の打ち上げは、久々に帰路の途中所沢で行った。 IMG_0898IMG_0905小仏峠_土道_登り口小仏峠頂上周辺小仏峠東坂_急坂途中 ウォーキング部会長 東海俊孝

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