第90回 ウォーキング(R5.6.12)【嵐山・千年の苑ラベンダー園】
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嵐山町(らんざんまち)は、人口約1万8千人。埼玉県中部の比企郡にあり、日本の国蝶オオムラサキの生息が有名で、歩道に見る蝶のタイルが風情を醸していた。町の名は、町内を流れる槻川の渓谷美が京都嵐山の風景に似ていたことから、昭和3年に本多静六林学博士により「武蔵嵐山」と命名されたことによるという。東久留米市から、西武新宿線本川越乗り換え、東武東上線川越市を経て所用1時間半、11名(男7、女4)と、雨で1週間延期の為に少し減った参加者一同で、田園都市としては瀟洒な武蔵嵐山駅に降り立った。
昨年のNHK大河ドラマ鎌倉殿の13人に、比企地域に関わる比企能員、畠山重忠が登場していたが、当時この地域は源頼朝の有力な御家人を出した勢力圏であった。先ずは、両者共々北条一族により滅ぼされたという惨い歴史を語り継ぐ城跡に建つ、駅から約1㎞の菅谷館跡・嵐山史跡の博物館を訪れた。博物館にて、比企地域の13~16世紀、重忠の時代から戦国時代迄の中世の歴史を学んだ後、緑豊かな広大な城内(城跡となっている)を散策した。この地では、嵐山町の歴史上の有名人は誰?と問われれば「畠山重忠」がすぐに思い浮かぶという。重忠は源平の時代のヒーローで、その重忠が住んでいたところが「菅谷館」であるが、城内には重忠の像も建っていたが、今見ることのできる城内は重忠の時代(約800年前)の館跡ではないという。約13万㎡の広大な面積の城跡は戦国時代(約600年前)、古河公方と関東管領上杉憲実が戦いを繰り広げた当時の城跡であり、それより200年前の重忠の館がどこにあったのか、残念ながら今も不明いう中で、吾妻鏡の記述、地元に残る多くの伝承や遺跡などから、重忠の菅谷館は現在の城内かその近辺にあったと推測されている。
非常に多くの鶯が鳴く快い声に囲まれる中で、一同車座になって昼食となり、鶯に合わせて舌鼓を打ち、普段あまり出来ない優雅な時間を過ごすことが出来た。
城から2㎞程歩くと、槻川と都畿川が合流する地に約6.5ヘクタール、植付株数約22,000株を誇る「千年の苑(ラベンダー園)」に至る。稼ぐ農業と地方創生を目指して、農事組合法人、商工会、他、多方面の協力により、町の活性化に向けて起業された事業という。「千年の苑」という名称は、鎌倉武士の鑑とまで讃えられた畠山重忠公の居住していた菅谷館跡から見下ろせるこの地が、木曽義仲公生誕の地の近くでもあり、約千年の時を経た現在、この思いを込めた美しい地を創るという意味を込めたものであるという。辺り一面、可憐に咲き誇っている花の美しさに浸るひと時を満喫し、群れ飛ぶ蜜蜂の心意気も感じとった頃、花壇の真ん中に設けられた場所にて全員の記念写真を撮ったが、来年の開花の為に全ての株を刈り取り更地同然に帰す作業に入る26日まであと数日と迫る事実が信じられない思いであった。
「武蔵嵐山渓谷」は、岩畳と槻川の清流・周囲の木々が織り成すみごとな景観と豊かな自然環境が素晴らしい。槻川は、外秩父山地の堂平山中にある自然林に端を発し、東秩父の山間を抜け、小川町を経て嵐山町の遠山地区に流れ込み、ここで岩場によって流路を狭められ、都幾川と合流する二瀬の手前までが渓谷となっている。昭和3年の命名当時は、今では想像がつかない程観光地として大変に賑わい、昭和14年には、与謝野晶子が訪れ、渓谷の自然などをテーマに「比企の渓」29首を歌い、内一首は「槻の川 赤柄の傘をさす松の 立ち竝びたる 山のしののめ」という歌碑になっていた。
帰路の途中、本川越駅近くで打ち上げをした。 東海俊孝 記
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