榎本 隆司
早稲田大学名誉教授 (当会顧問)
平成14年4月21日 成美教育文化会館で東久留米稲門会の総会時、先立って行われた講演の記録を補訂したものです。
花の、桜の季節を過ぎまして、今やつつじ真っ盛りというところですが、今年は陽気の加減で大変桜が早くて、あっちこっちでかなり戸惑いがあったようです。時間的なずれがわれわれの日常生活にどんな影響を及ぼすか、今年の桜の様子ひとつを通じても、あれこれうかがえると思います。
あやかりまして?私、ちょっとタイムスリップさせていただきたいと思います。「よのなかにたえてさくらのなかりせばはるのこころはのどけからまし」。皆さんご存じの在原業平の歌です。桜なんてものがなければ、さぞやのんきに春を過ごすことができるであろうにと。もちろんこれは、こよなく桜を愛する心から出たものです。この業平の歌を受けまして、江戸の中期の俳人である大島蓼太(りょうた)が、これも皆さんよくご存じの、「世の中は三日見ぬ間に桜かな」と詠んでいます。桜はまた、散るを急ぐ花としてもいろんな機会に使われてきていますが、ともかく、古来この桜を愛でる、こういう歌なりが大変多くあります。と同時に、日本を代表する花として、古くは花というと梅の花を言ったようですが、王朝期の『後撰』『拾遺』などの勅撰集に続く中期ちょっと前くらいから、花というと桜を指すということになりました。ともあれ、日本の花を代表する桜―そういうことで、この花に託して、いろんな物語が生まれてきております。
はなのいろはうつりにけりないたづらにわがみよにふるながめせしまに
これは小野小町の有名な歌ですね。「はなのいろ」というのはもちろん、桜の美しい色合いであり、同時にここでは、小野小町を、女の身である彼女自身をこれに仮託しています。大体、どんな女性(にょしょう)でも、若い頃は、その若さを何とはなしに奢る、誇りたい。そして、そんなことで過ごしているうちに、悪い言い方をすれば、いい気になっているうちに、それはちょうど花の色が長雨で褪せていくように、色香が失われていく。小町の場合も、若い時を経て、ちょっとばかり落ち目になりつつある、そういう自分を嘆いている、とまで言いますと、強過ぎるかもしれませんけれども、振り返っての歌であります。もちろん、内容的にそういうことが歌われるについては、一夫多妻制度下の辛く弱い女性の立場が考えられもするのですが、だからこそまた、男性を含めてのことですけれども、貴族社交界を生きるに必須の歌の技倆を、特に女性は磨いておかなければならなかった。知的技巧に秀でているゆえんです。この歌で言えば、花の色に自らを仮託すると同時に、「よにふる」で「年を経る」、日数を重ねていく意味と「雨が降る」を掛けており、「ながめ」に「眺め」と「長雨」を掛けています。「ふる」は「雨」の縁語です。こういう技巧的なみごとさが認められます。多情多恨などと言いますと、これまた小町に対して酷であるかと思いますけれども、先程申しましたように、やはり色香を誇った若い日々と、その衰えを意識せざるを得なくなった、そういう女性一般に通ずる思いを花の色に託して歌っているところに、業平らとともに王朝初期の六歌仙の一人としてうたわれた小町の才がうかがわれます。
美しい花が少しずつかげりを見せて来ます。「花のいのちは短くて苦しきことのみ多かりき」―林芙美子。そして大先輩の井伏鱒二は、これも多く皆さんお目にとめていらっしゃるかと思いますけれども、「はなにあらしのたとへもあるぞ さよならだけが人生だ」。さらにまた、ご年配の方々には忘れられない、映画「愛染かつら」の主題曲「旅の夜風」というのがありますよね。「花も嵐も踏み越えて行くが男の生きる道」といったような、西条八十作るところのこんな作品にも、花が、人間の営み、人生との関わり、人事との関わりにおいて、時を重ねてきているということがうかがえます。「花のいのちは短くて」という林芙美子は、苦しいことばかりの人生を訴えています。まさにその、苦しく、憂い辛いばかりの日々、江戸時代の人々の考え方では、「憂き世なりゃこそ浮かれて過ごす」―「浮世床」とか「浮世風呂」とか言われる、「憂き」と「浮き」を引っ掛けて、憂く辛い世の中だからこそ浮かれて過ごそうという、現実享楽的な生き方が生まれても来ているわけですけれども、林芙美子の歌は、花に託して、まさにその憂い辛い、多事であった女の生涯を伝えるにぴったりのものだという風に言えるのだろうと思います。 井伏の方は、「はなにあらし」のたとえを介して「さよならだけが人生だ」と、彼らしい飄逸な味わいを見せつつ、同時にやはり人生のなにがしかを語り伝えています。すべては「さよなら」、おさらばというところに集約される、といったような意味合いをも読み取ることが出来るかと思います。と言って、私は、今日ここでこのままおさらばをするというわけにはいきませんので、暫くお時間を頂戴いたしまして責めをふさぎたいと思います。
「よしなしごと」と題しました。これはまた皆さんご存じの兼好法師、卜部(うらべ)兼好(かねよし)、ぼくなどは、兼好坊主と言った方が何かぴったりするような感じがいたしますけれども、この兼好の代表的な著作の『徒然草』の序ですね、「つれづれなるまゝに日ぐらし硯にむかひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつくればあやしうこそものぐるほしけれ」。「つれづれなるまゝに」は、注釈書では大体「退屈であるままに」、「所在ないままに」といったふうに訳されているようです。所在ないままに、一日中、硯に向かって書き続けていると、書いていることは「よしなしごと」、とりとめもない、どうってことないんだけれども、だんだん興が乗って来て、物狂おしいばかりになる―この『徒然草』の序から採らせていただきました。頂戴したお時間に向けての題し方としては少々横着である。もちろんお受けした以上は真剣につとめるつもりで考えたに違いないのですが、稲門会の、キャリア十分、しかも各界におけるそういう方々を前にお話をするというのは、まことにもって怖い。どんなことをしゃべったって、大体皆さんがご存じの話であり、とどのつまり、何だ、くだらない話をしやがって、ということになりかねない。それやこれや思ったからだけではありませんけれども、最初からシャッポを脱いで、私のしゃべることはとりとめもない、つまらない話でございます、お許し下さいと、そういう気持ちも寄せて、「よしなしごと」―。しかし、遂にそのまんまではこれまた逆に、失礼な、相済まないことになる。何らかのところへ、あるいは形に収斂していかなければならない。そこで、「いのちひとつ」と、これもちょっとばかり冴えないサブタイトルですけれども、そういう形にさせていただきました。
まさに季節は緑の季節。「柳は緑、花は紅」と言いますね。変わらぬ自然の理法を言ったことばです。大自然の移りというのは、今年みたいに多少時間的なずれはあっても、日本の季節の場合で言えば、やっぱり冬のあとに春が来る。日本の気候風土の特徴をめぐって、大先達の和辻哲郎が『風土』という名著を残しています。たとえば台風の季節、二百十日とか二十日という、去年でしたか、えらく早く来たことがありますが、大体その時期にやって来ます。しかし、九月一日に必ず来ると決まっているわけではない。十日に来ると決まっているわけではない。そして、そういう気候風土が、日本人の気質を、それに見合ったものとしてつくり上げていると言うのですね。人間の気質ばかりではない。たとえば竹が重い雪に大きくたわんでいる風景などは日本の風景としてどなたにもイメージ出来るかと思いますが、本来南方産で弱い竹が、日本の風土の中ではそんな強いものとして変わり育っているのだと和辻は説いているわけです。そういった問題も考えられるのですが、「柳は緑、花は紅」ということばは、大枠ではまさに自然の法(のり)を伝える、文字通り、そういう意味では当たり前のこととして、万物の特性をたとえたことばとして知られています。あるいは、春容、春の姿、春のかたちの美しさを伝えることばとしてもよく耳にすることです。
いずれにしましても、この「柳は緑、花は紅」という大自然の理法を伝えることばには、下手な理屈も虚飾もありません。まさにそのものを、真理を伝えております。こういう変わらぬ自然の理法に対して、われわれが身過ぎ、世過ぎをいたします人事の世界、この世界のいかに多事であることか。いろんなことがある。そしてまた無常。しばしば痛切にそういう思いを抱かせることもあるのですが、そういう多事であり、かつ無常である人間の世の中、われわれが生きている日常の場というものは、これをまあ抹香臭い言い方をすれば、いわば煩悩ですね。煩悩ゆえに、われわれはわれわれの生きる場を多事にしている。ひとによってはのんきに構えて何の心配もない顔をして生きていらっしゃる方もあり、また、なんだかんだ大変だと言って、この世の苦労を一人で背負っているような人もいないではない。すべてこれを煩悩と仏様の世界では言いますよね。煩悩を解脱して仏の世界に入る悟り。煩悩というのは、まあ言ってみれば名誉や利欲、名利を求める心と言い換えてもいいかと思いますけれども、そういう煩悩ゆえに日々を、ああでもない、こうでもないと、泣いたり、喜んだりして生きている。だからこそ人間はまた、花に求め、自然に求める。あるいは旅に出る。日常を逃れ、自然を求めて旅に出るというような、そういう生活をしてもいるのです。
吉野山やがて出でじと思ふ身を花散りなばと人やまつらん
ご存じ西行の歌ですね。佐藤義清(のりきよ)。鳥羽上皇に仕える北面の武士。将来を十分に約束されていた彼が、突然二十三歳にして出家する。落語とか講談なんかにさえ材料になって、お女中に失恋したからだといった話も伝わっておりますが、とにかく出家する。そして、俗世間を捨てて山野に生きる。花鳥風月を友とし、自然を生きる、そういう生活に入ります。俺はそういうことで世を捨てて吉野山に入る。「やがて出でじ」の「やがて」は「決して」ですね。決して山を出まいと思っているのに、なあに、西行は花を見に行ったんだよ、だから花の散る頃にはまた帰ってくるよと、都の人達は言っていることであろう。自分はもう絶対に出まいと思っているのに、世間の連中は、都の連中は、そんな風に俺の帰りを待っているのであろうか。これは一見、矛盾した、言いわけめいた中味でもある。出まい、帰らない、と思っているのなら、世間の人が何と言おうと、都の人達があいつは花を見に行ったのだから帰って来るよと思っていようといまいと構わないわけです。自家撞着、言わば明らかに揺れています。しかもわれわれは、またこんなところに、俗世間を捨てて自然に身を置きながら、なおかつ俗を生きる人間を捨て切れなかった西行の、それゆえに人間としての魅力を見ます。それは、人間として生きる上での、アンビバレンツということばがありますけれども、自分の中にいろんな相矛盾する要素を抱え込んで、その葛藤の中を生きていかざるを得ない人間、そういういわば、ひとつの典型として見、それゆえにこそ、人間西行としての魅力を覚えたりもするのです。
さびしさにたへたる人のまたもあれな庵並べん冬の山里
やっぱり淋しい。だから、俺のように世を捨てた人間がもうひとり脇に居て、二人で庵を並べて住むことが出来たらよかろうになあ、なんてことを言っている。あるいはまた、「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ」。俺は不風流者だ。人の心を解しない。そういう男なんだが、そんな俺にも、秋、鴫立つ沢の夕暮れ時の風情は心にしみる。俗界と自然のあわいを生きるというふうにあるいは言ってもいいかもしれない。と同時にそれは、人間として様々な矛盾、内的葛藤を抱えて生きなければならない、そういう人間の在りようというものを伝えているというふうに言っていいだろうと思います。そして、敢えて言えば、誰もがそういう矛盾なり、内的な葛藤、相剋を抱えて生きているわけで、そういう抱え込んだものを、どういうふうに自ら受けとめ、処理していくか。それによって人間の、ひょっとするとお値打ちのかなりの部分が決まってくるのではないだろうか、とも思うのです。
「人間尽風波」(人間コトゴトク風波)ということばがあります。「人生」と言わずに「人間」と言っているところが面白いとぼくは勝手に解釈しています。「人間尽風波」―結婚式などで、人生にはいろいろ山も谷もあるから、そこのところを頑張って―などと挨拶することがありますが、ぼくはそんな時、「人生」と言わずに「人間」と言う。それは、外から、生きて行く自分にいろんな波風が寄せて来るのではなくて、自分自身の内側にひとは波風を抱えているのである。夫婦としての生活をしていく上でも、対社会的な生活をしていく上でも、外的な条件をまずは措いて、自分の内側でいろんな波を受け風を受けなければならない、そういう状況に立たされる。その時に、それをどう処理していくか、ということがやはり成長していく人間として大事なことだ、というふうに言ったりもして来ているわけです。それは、こういういわば内的葛藤なくして人間の質の高さ、重さみたいなものは生まれてこないのではないだろうかと考えるからです。あの、「つれづれなるまゝに」などと言っている兼好でさえ、一方で「物言はぬは腹ふくるゝわざ」、だからやっぱり言った方がいい、と言っている。退屈なんか絶対にしていた筈はない、あの中世の動乱期、世の中がおもしろくないから、世を捨てて彼もまた坊さんとしての生活を人里離れたところでしているわけですけれども、やっぱり世を思うととても黙ってなんかいられない。さればこそ「徒然草」の中でいろんなことを言っていました。そのいろんなことが、ひょっとしたらかなり矛盾しているんじゃないのか。たとえば、一所懸命拝んで仏道修業しなければいかん、なんて言ったかと思うと、ほどほどにしておけとか、人間四十ぐらいで死んだ方がいいんだぞ、と言いながら自分は七十近く、六十いくつまで生きているとか、非常に真面目な人からすると、出鱈目なことを、いい加減なことを言うんじゃねえと怒りかねないようなことを言っているのですが、これは彼が詩人であるゆえんだと見られてもきているところです。哲学者として体系の中を生きた人ではなく、詩人であるがゆえのことだと見られてきているのです。しかし人間の種々相というのは、まさにこの眼できちっとおさえておるぞ、そういう俺の眼で見て、今の世の中は何だ、ということで言いたいことを言っている。それが、エッセイのかたちをとっていますけれども、『徒然草』の全篇を通じて読みとれます。兼好「坊主」と言いたいように、かなり生臭い一面を持っている。だけど、それゆえに非常に親近感を思わせてもくれる、そういう存在であることを言いたいがためなんですが、西行が、これもよく引かれる、「願はくは花の下にて春死なむその如月の望月の頃」―オレは春、桜の花の下で、それもお釈迦様の亡くなった旧暦二月十五日あたりに死にたいと、願い求めております。人間と自然というものの中で、内に抱えるアンビバレンツを先輩たちがどう生きたか、それをごく大雑把なかたちでたどりました。言うまでもなく人間は飯を食って生きております。だけど、パンだけでは生きられないということもまた言われ続けてきていることです。腹が減ってはいくさが出来ぬとか、いのちあっての物種―とまあ、いろんな言いかたがありますけれども、誰もがひとつずつ持っているいのち、折角貰ったいのち、このいのちを、誰のものでもない、自分のものとして生かさない手はない。日常、まあこの頃はあまり言いません、「グルメ」―当たり前になったからでしょうけれど、ああそうでもない、この東久留米稲門会でもグルメ同好会というのがありますから、いぜんとして、ものを食って歩こうというお楽しみはあるわけです。それは結構なんです。私も、前回のご案内の時には、どこかそば屋に行くぞ、うまい酒が出るぞ、というのにちょっと惹かれまして、行きたいな、と思わないわけではなかったのですが、何かで時間が取れなかったか―、ともかくそれは大いに結構なのですが、だけどあのグルメばやりに乗っかってと言いますか、煽られて、どこどこのなになにはうまいぞと聞くと、みんなそこへ出かけて行く。自分の食うものぐらい自分で選んだらどうだい、ひとが言うからといって、そこへ行って、そして、本当にうまかったのかうまくなかったのかよくわからないで、まごまごすると、高けえんじゃねえの、ぐらいに思ってですね、しかもひと様に向けては、通ぶっているといった手合いが少なからず。でも、自分の食うものぐらい自分でお考えになったらいかがであろうか。そんなところからも、誰のものでもない、自分のものとしての生きざまを、このいのちを大事にしていきたいと思うのです。
ぼくらのいのちの原点はお母さん、のおなかの中。まあ、お父さんの存在も忘れているわけではありませんが、一応お母さんを立てまして、母の胎内をいのちのふるさと、原点として見ます。ところが作家室生犀星、これも、「ふるさとは遠きにありて思ふもの、そして悲しくうたふもの」というような詩で皆さんご存じ―あの室生犀星は、おっかさんを知りません。お女中―いや文字通り女中さんだった、その女中さんがご主人との間になした子が犀星なのですが、子供が生まれると女中さんは姿を消す。そして犀星は、とんでもない、人買い婆あみたいなところへやられて育ちます。金沢へ旅された方も多いと思いますが、浅野川と犀川にはさまれた街、その犀川のほとりに雨宝院というお寺があります、それが犀星が子供の頃に育ったところ。そして今、犀川のほとりに犀星の小さな文学碑が建っていますね、あの犀星、しかし、その辛い思いの故に、「ふるさとは遠きにありて思ふもの」―オレにとって金沢は、そんなに嬉しく楽しい場ではないんだ、という思いが裏側にあろうかと思います。その犀星が、「無飾の純粋」ということばを使っていますが、「女中部屋」という詩の中でこんなことを言っておりました。
いのち永らへ
いのちのいみじさを知るか、
五十歳(いそとせ)となり
五十歳(いそとせ)の夕ぐれも侘びしや、思ひづる
かの赤ん坊はそだちしとか
赤ん坊は世にいでしとや、
あはれ五十歳になりしとや。
この赤ん坊が自分なのです。自分のお母さん、つまり道ならぬ子を生まねばならぬ、どうしようこうしようと、多分、蚊のいっぱい寄ってきただろう夕ぐれ時の女中部屋で思案に暮れていた、そういうおっかさんがしのばれる。生まれて会ったことはない、のちにそんなことであったろうという自分の母親が偲ばれる。
とにかく、自分の母親が何時死んだやら分らないといふことは今日の私には鳥渡想像できないことであった。さういふ子供がほかにも沢山ゐるだらうが、それらの子供は長じて矜持をもつやうな仕事はできないであらうし、碌な人間になれないであらう。私が文学でもやらなければならない事情も、また小説を書いて生きなければならないやうに圧し付けられたのも、かういふ母を持つたからであると云へよう。小説を書かないで外の職業を持つたとしたら、全く碌な人間にならなかったであらう。文学に放射する才能が悪くこぢれて世間を渡る悪才にもちゐられたとしたら、私は悪寒をかんじるくらゐ恐怖を感じるのだ。
とにかくどこに自分のおっかさんがいるのやら、死んじゃったのやら、そういうこと一切がわからぬまま育った人間は碌な人間にならない、辛うじて自分は文学というものにひっかかったことで、そこに救いを求める場を得た。この犀星、『あにいもうと』とか、戦後の名作では『杏子』とか、そして『かげろふの日記遺文』、中世の道綱母の書き残した『蜻蛉日記』に借りて書いています。道綱母、のちに一国の総理大臣になる兼家に見染められて、いやだというのに引っ張り込まれて奥さんになる。しかし女たらしの兼家に愛想をつかし、二十年にわたる恋の生活にピリオドを打つ。そしてその後は、一子道綱を育てる―女としての幸せから母親としての生き甲斐に、行く道を変えていく―そういう道綱母が、自身を告白する。近代の告白小説、私小説とか心境小説などの走りとさえ見られる告白の日記、この日記の中に、ほんの十数行、町の小路の女という女が登場します。兼家がかかわった女性ですが、これに気づいた道綱母が、ある日家の者につけさせて、その居処を突きとめる。そのうちに、子供が出来たという情報が入ってきて、これには道綱母はかなり頭に来るわけですが、さらに日数を経て、その子供が死産をしたという話を聞くんです。その時に彼女はその日記に、「今ぞ胸あきたる」―非常に強い調子で、「ザマあみろ、せいせいした」と書いている。そしてそんなひとことのまま、町の小路の女はこの日記から消えていきます。それこそ、どこで、どう終わったのやらわからない。その町の小路の女、日記の中にほんの十数行しか顔を出さない、聞く名もない女性に犀星はスポットを当て、その女性を中心にして、『かげろふの日記遺文』という作品を書きます。ここには、道綱母に当たる正妻、いや本妻は別にいたのですが、比べて、町の小路の女の方が、作品の上では冴野という名前を貰っていますが、自分のおっかさん、自分を生んだまま何処へ行っちゃったかわからない、そのおっかさんと完全に重なっているということで、犀星を考える上で大変興味深い作品なんですけれども、この『かげろふの日記遺文』を書き終わったところで犀星は、自分はこれを書いている間、年中自分の前に現れてきた、無名の、沢山の女を見た。名もない、そういう女が自分の前に現れては消えていく、しかもその女たちによって、自分はどれほど救われたか、癒されたか、ということを、そしてそれがゆくえ知れぬ母親を慕う思いを支えとして一つのドラマを生むことになった、ということを「あとがき」に書いております。
ここでその名もない女たちの「無飾の純粋」というものを、彼は強調しているわけですけれども、「無飾の純粋」につきましては、またあとでちょっと触れさせていただくとして、犀星自身が、文学でもやっていなければと言っていると同じように、ぼくなども、やくざな仕事に引っかかってここまで来てしまいましたが、よく聞かれることは、なんで文学やってんですか、なんで文学研究なんかやってるんですかということなんです。困るんです。しかし、少なくとも、文学とは何か、学生にしてみれば早くそれを知ってしかと自分の場を固めたいと思うのは当然ですから、そういう質問が出ます。わからない、という方が正しい答えになるかもしれないが、まあ、ぼくなりに、ということで言うひとつに、文学は、自分の愚かさをつくづく知るところから始まるんだ。何てオレは馬鹿なんだろうと思ったこと一再ならず。あるいは皆さんのご経験の中にもあろうかと思いますが、そういうかたちでの自己凝視から始まるんだ、とぼくは言ってまいりました。別には自己否定という言い方で言い換えてもいいかと思いますが、さらに言えば、裸になった、つまらぬごまかしや飾りを斥け、「無飾の純粋」ですね、純一に生きることを志すところに始まっているんだということです。
以前ちょっと聞いたような気がするのですが、東久留米に業平ゆかりの松とかがあったでしょうか。日本の物語のはじめの祖(おや)として『竹取物語』と『伊勢物語』が挙げられます。『竹取』は、竹の中から生まれたお姫さまが、お月様の空へ迎えられていくという伝奇的なはなし。『伊勢』は話の間に歌が入って来る歌物語。歌は抒情詩、自分の心をのべるものですから心理的ドラマとなる。この二つの流れをうまくまとめて書かれたのが『源氏物語』ということになりますが、その一方の『伊勢物語』に、「身をえうなきものに思ひなして」旅に出る連中の物語がある。「身をえうなきもの・・・」とは、オレはこの実の世の中では役立たず、もう要(い)らない人間だと考える者のことですが、そういうふうに「思ひなす」ということは、生きる上でのきびしい自己規定を意味します。現実の、実際の話としては、藤原氏の全盛期、他の氏族は排斥されました。在原なんていうのも他の氏族ということになりますが、紀氏などもそうです。文徳帝の時に、誰を次の皇太子にするかの春宮(東宮)争いがありました。紀名虎の女(むすめ)が生んだ長男惟喬親王と、藤原良房の女が生んだ惟仁親王との間の争いでしたが、結局は惟喬の方が負けます。藤原の専横おもしろからずということで紀氏を推していた業平は、その結果いわば政敵としてマークされることになる。これはやばいぞと、現実にはそういう問題もあって「身をえうなきもの」と、一種の自己韜晦をはかった、そうした業平の生き方として考えられたりもするわけですが、それはさておきまして、旅に出た一行が、日を重ねて、八つ橋(三河、愛知県)というところまでやってまいります。食事ながらにひと休みしようという目の前の沢には、美しいかきつばたが咲き誇っています。ちょうどこれからの季節になりますね、アヤメ科の多年草。連中は、いずれ劣らぬ風流人です、もっと言えば、権謀術策の実世間を離れて、まことの人間を生きようと心した者達です。早速にこれを詠もうということになります。しかも、三十一音の中に、「か、き、つ、ば、た」の五文字を織り込んで、ということです。待つ間もなく一首が出来上がりました。
唐衣きつゝ馴れにしつましあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ
五文字もちゃんと入っている。みごとなうたである。「唐衣」は、文字通り唐風の、袖口の広い、裾の長い、旅の装束として着ている。それが、旅を重ねている間に、褄のあたりが傷んできた。ああ、遠くまでやってきたものだとの思いが深い。褄は妻(いとしい女性)と掛けられており、京に残してきた愛する人がどうしているかとの思いが託されている。これをきくと、思いは同じである、「皆人、かれいひの上に涙おとしてほとびにけり」と、ひろげていた携行食の乾飯が涙でふやけてしまったというお話である。さて、旅をつづけて武蔵国までやってまいります。
名にしおはヾいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと
言問橋の名の発祥のうたですね。「名にしおはヾ」―お前さんは都鳥という名前を持っているじゃないか、だとしたら、都に残してきた者の様子などよく知っているだろう、だからお前に聞きたい、元気でいるかどうか―そうするとまたそこで、舟人こぞりて涙する、というわけです。大変純粋で、多感で、つまりその時に、たとえば落語で、ナンマイダ、ナンマイダとおじいさんが朝のお勤めをしている、それは大いに結構なのだが、そのうちに「ナンマイダ、ナンマイダ―、ほら婆さん鍋が臭いぞ」とか何とか、つまり俗事にすぐに眼が行ったりする落語がありますが、そういう「鍋」のはなしはここには出て来ない。つまり日常、実の世界を超えて、いわば虚の世界で充足し得る人々の在りようというものを、ぼくらはこの作品、この一行の動きの中に読み取るのです。武蔵国までやってきた俺たちは都人。西の人間で、品のいいうす味で生きてきたが、関東というのは何とまあ辛(かれ)え味なんだろう、とか、あるいはだんご、言問だんごはのちのことでしょうが、とにかく、そういう食い気の話ではないんですよね。そして、わが思う人への、まさに純粋な思いでこのくだりをくくっております。愛する人々の消息、それだけが聞きたい、そういう心のたたずまいをぼくらはここに見て、あえて言えば、「ありやなしや」―元気でいるかどうか、そのひとつのいのちへの思い、真情というようなものに、心打たれる。実用、世俗、日常―そういったものを超えたところに自分の居場所、ありか(在処)を求めていく、そういう人間の在りようというものをこれらは教えてくれています。
昨日またかくてありけり
今日もまたかくてありなん
このいのち何をあくせく
明日をのみ思ひわずらふ
島崎藤村はそううたっていました。解説一切無用ですね。しかもわれわれは、なんとはなしにあくせくしてはいまいか。夏目漱石は、例の『草枕』で、
智に働けば角が立つ。情に棹せば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じるとどこかへ引っ越したくなる。どこへ引っ越しても住みにくいと悟ったとき、詩が生れ、畫が出来る。
つまり俗世間、俗界の生き方から、畫の世界、詩の世界に身を置いていく、余裕派などという言われかたがされていますが、要するに俗塵を超えて生きる詩人の、画家の姿を写しておりました。漱石は今日なお読まれ続けているわけですけれども、文字通り日本の近代を代表する作家の一人。人間の、一言で言えばエゴイズム、誰もがどうにも消しがたく持っているそのエゴイズムの醜さとか、そういうものと戦う在りようというものをずっと追いかけて行って、追いかけ切れずに死んだ人。早くから神経衰弱気味で、ロンドン留学中に「夏目漱石発狂す」というような電報が入って文部省を慌てさせたという伝説もあります。事実、いろいろおかしかった。鏡子夫人は、ソクラテスやトルストイの女房と並んで悪妻の名の高いものとしておとしめられていますが、実際に彼女が書いたものなどを見ますと、漱石の方が相当おかしいよ、と言っていいだろうと思うところがあります。しかし、天才と狂人の間は紙一重。漱石はやはり現実を生きる日本人の心の内側に巣食っている大きな問題を、きちっと最後まで、死ぬまで、現実から逃げることをしないで描き続けた、そういう立派な作家です。
そのほか挙げればいくらもいるんですけれども、ひとつだけ添えておきますと、その漱石の知友に正岡子規がいますね。子規という人は、大変頭のでっかく写った写真が残っていますが、本当に頭がすごかったみたい、大変な存在だったと思います。はやく、明治三十五年には亡くなっていますが、その三年前、三十二年に、友人の福本日南、福岡の男で、わかりやすいことで申し上げますと、例の「忠臣蔵」の話を、今日知るような、仇討話をも含めて史実にできるだけ近いかたちにととのえたのが、この日南の『元禄快挙録』です。この日南が、パリに行っておりました。その年三月九日付で、子規が日南宛に消息を送る。そして最後に、
いたつきにわれは臥し居る仏蘭西の玉の台(うてな)に君は住むとふ
オレは病の床に就きっ切り、君はフランスの玉の台に住むという―今でこそ、フランスへいらっしゃる方は多いし、あそこを玉の台と見るか、馬鹿馬鹿しいと思うかそれぞれですけれども、当時は完全に花の都=玉の台だった―寝たっきりの子規からすればうらやましいな、というわけで、「いたつきに・・・」 のうたになった。ロンドンへ回送されて来たそれを読んだ日南、「乃復之」(スナハチコレニカヘス)と、すぐに返事を書いて送る。
暫(しばし)待て万葉十六茶漬飯喰ひては語り語りては食はん
子規は手紙の中に、やっと余寒を過ぎてどうやらこの冬が越せた。もう少し生きられそうだ、と書いていた。『病床六尺』というエッセイを子規は残していますが、その六尺の、布団一枚の世界が「余ニハ広過ギルノデアル」というほどに、脊髄カリエスが最悪の状態になっていて身動きも出来ない。痛み、苦しみに号泣する日日を過ごしていた。そういう「いたつき」に臥しっ切りの子規を知っていたから日南は、たまらない思いで「暫待て」と返したのである。三十一音のこの初句は、大変強い。とにかくちょっと待っていろよ、俺はすぐに帰るから、それまで元気で居てくれ―と、まさに残された子規のひとつのいのちに向けての痛切な思いがそこにつづめられていて、強い感動を呼びます。二人の、近い間柄については「万葉十六茶漬飯・・・・」が如実に表わしています。『万葉集』についていろんな意見を持っていた両者であり、子規の万葉継承には大きく日南が介在しているという大事な問題が考えられるのですが、「巻十六」を含めてそれは措き、茶漬飯でも食いながらというのは、大変親しい間柄を意味しています。いついつお伺いしますと前触れして来た客に、いやあ、今日は何もないのでお茶漬で、というわけにはいきません。お茶漬で済ませられる友人達、その生きたひとことが、二人の間、そしてこの歌で言えば、子規に寄せる日南の思いをストレートに伝えています。話を端折らざるを得ませんが、この子規が三十五年九月十九日の未明に亡くなります。翌年に尾崎紅葉が没し、ここで日本近代文学の世界も大きく変わるのですが、亡くなる前日、子規は凄絶な絶筆三句を遺しています。
糸瓜(へちま)咲て痰のつまりし仏かな
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
をとヽひのへちまの水も取らざりき
痰を切るのにへちまの水がいいということを聞いていたが、すでにいのちの限りを知った子規は、もう求めなかった。やっと実をなした糸瓜の水も、自分のいのちには間に合わない―そう詠むひびきは痛切です。
この子規の没する八ヶ月前、三十五年の一月に、いささか突飛に聞こえるかもしれませんが、日英同盟が成立しています。歴史家の見るところによりますと、この同盟が成り立ったことで、日本とロシアとの戦争が不可避になった。これは僕らが経験するその後の世界史と言わず、日本の歴史の中で見たって、ウーンと思わないではないことである。有事法が成立したらどうなんだというような問題は、日英同盟が出来たためにロシアとの戦いを避けることが出来なくなったという歴史的な事実との見合いの中で十分考えられる問題ではないか。そうすると、その経験をして来たわれわれは思う。戦争に翻弄されてどれだけ沢山のいのちが失われたか、そういう歴史がもういっぺん繰り返されないとは誰が断言出来るんだ。今日、靖国神社に行ったようですが、小泉さん、わかっているのかなあという、そういう思いさえがします。
とにかく日英同盟が出来ます。そんな時期、明治三十四年七月、民俗学の柳田国男が先に伊良湖岬の一帯を旅し、「遊海島記」を残しています。「嵐の次の日に行きしに椰子の実ひとつ漂ひ寄りたり。打ち破(わ)りて見れば、梢を離れて久しからざるにや、白く生々としたるに、坐(そぞろ)に南の島恋しくなりぬ。」と書かれた一節がありますが、これを知った島崎藤村が、あれを俺に貸してくれ、ということで、「椰子の実」一篇、「名も知らぬ遠き島より」という詩を生んでいる。そんな機縁が友人間に交わされるのは大変結構なんですけれども、この詩の中で藤村は、「実をとりて胸にあつれば新なり流離の憂い」とうたっています。流離とは、文字通り寄辺を持たずに彷徨する青春期特有の苦しみ、悩み。藤村もそういう時期を過ごして来た。今、この漂い寄って来た椰子の実を胸に当てると、わが身の鼓動がまさにそう思わせたに違いないけれども、「新なり」、改めて流離の憂いが湧いて来る。生きていることへの思い、くさぐさの思いをこの流れ寄った椰子の実ひとつに託して、彼はうたっております。文学というのは、ことばにいのちを与える。そして人間のいのちを甦らせる。そういう役割を担っているかとも思いますが、藤村は椰子の実ひとつに託して、今言うように、生きる自分の流離の憂いを語っている。そして―、柳田自身は、近くの海峡に砲台が築かれるとの企てがあり、そのために二百余戸の漁民が移住させられるという噂を耳にし、「伊良湖は亦如何あらん。願はしきものは平和なり。」とこの一文、「遊海島記」を結んでいました。しかもその願いは、一九四五年の敗戦まで叶えられませんでした。
いわゆる「十五年戦争」の悪を告発した作家として、五味川純平(1916.3.15〜1995.3.8)がおります。『人間の条件』とか『戦争と人間』という大ロマンを残していますが、この五味川に、ちょっと古いのですが、「夢幻の如くなり」という文章があります。私はこの文章を読んだ時に、「文芸春秋」(昭57.9)に載ったのですが、非常に重い感動を覚えて、ひょっとすると人生観が変わるかなと思うほどの経験をしたことを想い起こします。
井伏鱒二が原爆が落ちてから二十年間材料を温めていて、『黒い雨』を書いた。あれは、姪の矢須子の結婚話がいつも壊れてしまう、どうしてだと叔父が心配して様子を聞くと、どうも黒い雨、広島から帰って来る途中でその雨に打たれているらしいという噂が広がって、そのために縁が遠くなってしまった。そこで、当時の実態を確かめるべく叔父があとづけていく―そういうかたちで作品は綴られているのですが、『黒い雨』という作品が原子爆弾の非情を告発する大きな力を持っているのは、「原爆反対」「原爆反対」と拳をあげて、でっかい声で騒いでいるからではないんですね。ひとりの女の、ひとつのいのちの、ごく日常的な幸せをあの黒い雨が奪ってしまった、それに向けての怒りが全編の基底をなしている。そういうところにあの作品の重みがあり、みごとさがあった。
五味川純平は、もっとストレートに戦争を告発していますけれども、たとえば映画になった『人間の条件』、仲代達矢が、辛い戦争時代を印象深く演じてもいましたが、自らがその極限状況を生きて来た、その五味川が「夢幻の如くなり」を書いているのです。癌に罹った奥さんの最後を看取った記録です。もう女房が助からないことはわかっている。女房はすごく怖がりで寂しがり屋だ。俺がこの病気を治してやることは出来ない。だけれども、もし女房が三途の川をひとりで渡れないというんだったら、俺が一緒についていってやる。俺が先導してやる。そのことは俺にも出来る―彼は本気でそう考える。そんなことを俺が言ったとして、世間の人間は、馬鹿なことを言っている、古風なことを言っている、と笑うだろう。笑うなら勝手に笑え。俺は冗談でこんなことを言っているのではない。―そして彼は、実際に薬を用意し、ナイフまでポケットにしのばせるのです。毎日毎日の看護の甲斐もなく奥さんは亡くなります。途中で彼は、物書きである俺がどんなに書いたって、それでちょっとでも政治が良くなったか。すでに喉頭癌で声帯を失っていることもあって、こんな人間が生きていたって仕方がないという、そういう憤ろしい思いを一方に見せてもいたのですが、とにかく奥さんに対しては、俺は実際長い間苦労ばっかりかけて来た、俺は何もしてやれなかった。その償いだってこれで間に合うわけではないけれども、少なくともお前と一緒に、ということは俺には出来る。そう思い、準備の一切をします。そして、最後に、とうとう亡くなってしまった奥さんを送る車の中で彼は思います。もし許されるならば、このまま女房を荼毘に付して、女房の遺骨と一緒に家に火をかける。後始末だけ頼んでおいて、爆弾でも仕掛けて、というふうにさえ思います。そして、死んでしまった奥さんを前にして、
今涙しつつ過ぎ来しかたを振り返れば、若かりし日より今日のこの別れの日まで二人して分ち合ひたる人生の全て―今はただ夢幻の如くなり。
と。奥さんに向けてのことばなんですね。お前と一緒に生きて来た。そのお前に死なれちゃったら、もうすべて、夢幻の如くだ、と言う。私の知り合いの本屋さんが、家の前で交通事故で奥さんを亡くすことになった。お悔みに行った時、「先生、私の人生の証人がいなくなっちゃいました」と言われ、どんな表現にも換えられない悲しみだと痛感してことばが出ませんでしたが、似た思いですね。つまり、生きて来たことの意味が、奥さんに死なれることで全部なくなっちゃったとさえ思われるという、そういう話です。
宵闇の街は賑わっていた。妻は私の傍らで亡骸となっていた。私は生きていく意味を失いかけていた。ただ亡骸に向って、心の中で「長い間本当にありがとう」と言っていた。
この時、五味川六十六歳。ソ満国境警備隊で一五八人中四人が生き残った、そのうちの一人なんですね。だからこそ、ひとつのいのちへの思いはまた格別であっただろうし、愛するということが愛する者のために、たとえば一日ずつ美しくなること、これは男の側からも言えるのであろうし、奥さんの側からも言えるだろう。それは愛する人のためにそれぞれの持っているいのちを大事にしていこうということに、即、つながるだろう。奥さんと一緒に行ってやれるよと、そのひとつのいのちのために全てがあげられるという、その意味で、ひとつのいのちの重さを本当に知っている、そういう人間にして初めて戦争を告発する資格が生まれる。それだけの腹も覚悟もなくて、生半可な戦争反対なんてものは、原爆反対運動に対してもそんな意見が出ていましたけれども、そんなもんではないということを、五味川は、この妻を看取る記録の中で語っております。
最後に、「芹沢光治良文学愛好会」という会の話を添えさせていただきます。この会は、自衛隊にお勤めだという方が中心になってやっておられて、多分世界で一番すごい会になるんではないかと誰かが言っていた。そう言えば、そういうことになるかなと思う。一回も欠かさずに毎月例会をやっているんですね。三、四年前になりますか、この会が、夏、軽井沢で第一回の緑陰セミナーを開くという時に呼ばれました。何で呼ばれたのかよくわからなかったのですが、お受けしました。そこで私は、「死者との対話」という芹沢の作品を取り上げました。和田稔という、沼津中学からの東大時代に学徒出陣し、最後に特別攻撃隊ですね、人間魚雷の事故で亡くなった青年がいました。一度攻撃に出陣したのですが、何ですか、電波の関係で敵を見失って帰って来ます。また次に出撃命令が出て、訓練をしているその時に、海中に突っ込んで上って来られなくなって亡くなったようです。学徒出陣する前、芹沢のところには、一高とか東大の連中が二十人くらい、よく集まっていた。その一人の和田稔は、いよいよ出征する時に、どうしても死ぬ覚悟がつかないと芹沢に訴えます。いろいろ哲学書なんかを読んだりもしたが、誰もこれについて答えてくれない、どうすればいいのか。芹沢は戦後そのことを思い出し、「死者との対話」一編を書きます。君は征く時そうだったな。その後われわれはこうで、軽井沢で勤労奉仕をしながら、村の連中がうまいものを沢山食べているのにこちらはひもじい思いをして過ごしたのどうのこうのといったことを語り掛けました。その作品を取り上げた私は、結論的に言いますと、ここには、芹沢の、和田稔のいのちに向けての悼みがないではないか、だから、対話になっていない、と、ちょっとばかりクレームをつける格好で話しました。あとで聞いたのですが、その晩、聴いた人達、六十人くらい集まっていたのですが、泊まったその晩、激論が交わされたということです。私は翌日のシンポジュウムをつとめるに必要な作品をまだ読み終えていなかったので、パーティのあとすぐ部屋に籠っていたんですけれども、翌日、「夕べ、先生、大変でした。先生の芹沢批判に対して、侃々諤々の議論になって。よっぽど先生を呼びに行こうとかと思ったんです。」という話を聞かされました。両論あっていいと思いますが、私はこう読んだんです。『わだつみのこえ消えることなく―回天特攻隊員の手記―』(初刊は1967年筑摩書房。その折削除された部分を復元し、増補した角川文庫版が昭和52年に出、平成7年に改版再版されている)という本が、和田稔の名前で出ている。最初の出撃の時に第六艦隊長官から短剣を受ける和田少尉の写真がある。戦闘帽に「七生報国」の鉢巻をした和田が、白い手袋の手で受け取るところである。この写真を見てですね、何だ、この短剣は。こんなものが一体何になったんだ。天皇陛下のためという名の下で、こんなもの一つで、すばらしい好男子なんです和田稔は、その若者のいのちを奪ったそのことへの憤りとか悼みとかいうものを、芹沢は書いてないんじゃないか、それが不満なんだ、という意味のことを、私は話したんです。そういうことがあった、それはさておいて、毎号送って下さるこの会のパンフレットの最新号(4月号)に、六十歳になるご婦人が、「リレ―随筆」を書いていました。けれん味のない、そして拙いけれども美しい文章だと思って、私はこれを読みました。
・平凡なる、単なる一個人の自己表現方法であっても、声や言葉や文字を使って行う話すこと、文章を書くこと等々は、とても大切だと自覚しながら、私はこれまでそれらを高めようとする姿勢に欠けて来ました。人生に於いてずいぶん勿体無いことをしたと思います。しかし、柄にもなく60歳にして美しく老いたいと改めて希望し出した私。今日一日を大切に楽しみながら、自分磨きに励むのも一興かと。そして、その成果を明日があるさと未来一本に希望を託して歩むのも、生きがいに通じるものかと思います。
この「明日があるさ」というのは、彼女が定年でお退きになる前の日にお仲間がお別れの会を開いて下さった、その時にみんなで歌ってくれた歌なんだそうです。どういう歌か、私は知りませんけれども。明日があるさ―そういうものを自分の今の生き方に彼女は引き込んでいます。文学研究って何のためにあるんですかって、私自身、恐れ多くも大学院時代の指導教授である柳田泉大先生に聞いたことがあります。「そうさなあ」とにやにや笑いながら、「明日という日があるからな。あるからな」と、先生はおっしゃいました。明日という文字は、明るい日と書きますよね。古いことばでは、明日(あした)と言ったら、朝であったり、翌朝の意味もあり、ですけれども、われわれは明日の明るい日へ向けて、是非に生きたい。そのために自分だけの、たったひとつの、このいのちを、気楽なかたちで、自由に、好きに、磨き鍛え、そして今後に資することが出来たらなあと思うわけです。そして余計なことを言えば、たとえば東久留米稲門会、本当にお歴々が揃っていらっしゃる。いつも集まりがいいのに感心していますけれども、長い間教師をやって来た者の関心事で言えば、たとえば今、あちこちで言われているコミュニティスクール、地域の人達が力を合わせてつくるそれを、このお歴々の揃った東久留米稲門会が考えたら、ちょいと他所様では真似が出来ないようなものが出来る。学校ボランティアを市が募集したら、すぐに六十人くらい集まったって聞きましたけれども、コミュニティスクールへ向けて、キャリア豊かなひとつひとつのいのちを結集していただけるなんてことが、また、すばらしい夢として見られるんではと思ったりもします。
年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山
西行最晩年の歌です。東大寺への寄進のための旅。小夜の中山は、静岡県の小笠郡と掛川市の境にある峠で、箱根に次ぐ東海道の難所でした。こんな歳になって再びこの難所を越えることがあろうとは思いもかけなかったという感慨と同時に、その一歩一歩におのれのいのちを自覚しながら生きている、最後の道を行く西行の姿が思い合わされます。 私事ですが、さて私も年たけて、今年うん十うん歳になりました。あと何年生きられるかと思います。しかし、何年生きられようと、生きようと、実を追う、日常にあって実を追うことには限りがあります。いくら金が欲しくたって、入ったって、入りませんけれども私の場合は全く。あるいは、いくらうまいものを食うと言ったって、それにも限りがある。そういう現実には限りがある。日常には。ぼくらが経験出来ることなんて、ほんの僅かです。だからぼくらは、本も読み、あるいはお話を聞き、先輩にも学び、というようなことをやっているわけです。残された時間、実を生きようと思ったら、本当に限りがある。だからぼくらは、虚の世界、実に対する虚の世界に夢を広げたいと望むのです。そして、そこに自らのたったひとつのいのちの拠り所を見出したいというふうに思いもいたします。私のおふくろが亡くなって、もう間もなく十七回忌が来ると思います。そのいのちのふるさとおふくろが、私がまだ家にいる時分から、「この子はねえ、もう一寸くらい大きかったら、いい男になったろうに」と、嘆いていました。今では三寸くらい大きくないといけないんでしょうが、当時はまだ五尺の男の時代でしたから、もう一寸大きければ、とお袋が、笑いながらしばしば嘆いておりました。今はもうそんな身の丈の話なんざとても出来ません。むしろ毎年、僅かずつながら縮んでいるんですから、この身の丈がちょっとでも大きくなるなんてことはあり得ない。それゆえにこそ、せめて心の丈だけは、一センチでも二センチでも大きくしていきたいと、そんなふうにも願い、心するわけです。
まさに「よしなしごと」。とりとめもなく申しました。長い時間恐縮でございました。ありがとうございました。(了)
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