川柳から見る江戸の庶民(前編)
講師 坂本信太郎早稲田大学名誉教授[はじめに]
私、只今ご紹介いただきました坂本でございます。お話にありましたように、元来は理工系の勉強をしてきた者でして、文学やその他にも興味や関心はございますが、学問として勉強したことはちっともございませんでして、こういう話はどうだと幹事の方からうかがった時には、それはとんでもないことと再三お断り申し上げたのですが、そういうところが雑学的で、非常に適しているのだからと押し切られてしまいました。どういうところが雑学的であるかわからないんですけれども、結局は押し切られたという訳です。私、川柳を調べるのに、必要な文献というものを、ごくありふれた物しか持っておりません。岩波文庫の川柳の文庫がございます。大体今出ているのが5冊か12〜14冊でしょうか。それらを見まして、適当なのを抜きましたが、そこに差し上げましたプリントにある通りのものでございます。このプリントは副会長の比護さんにご足労いただいて、作ったものです。
[川柳の起こり]
さて、この川柳についてちょっと申し上げたほうがいいんじゃないかと思うんですが、江戸の中期に「柄井川柳」という1718年生まれの人が居ました。浅草の新堀瑞竜宝寺門前町の名主を代々していた人です。この人が40歳の時、40歳といいますと、1757年ですけれども、名主の傍ら、いわゆる「前句付け」の選者になりました。前句付けの選者とは何であるかといいますと、前句付けという懸賞を行うことなのです。この懸賞文芸の選者になったのです。ここから彼の活動が始まるのです。この前句付けは、この当時、大阪で流行っていた一種の俳諧です。この前句とはどういうものかといいますと、七七の字数で作った前句というものを、まず選者が出します。それに対し、応募者が五七五の付け句をします。例えば、良くご存知と思いますが、前句で「切りたくもあり、切りたくもなし」、それに対し、「泥棒を 捕らえてみれば わが子なり」という付け句を付けました。このように一つの句ができる訳です。
その場合、前句は前句付け句の中では必要なことではなく、大切なのは付け句の方です。前句付けの選者は前句の問題を紙に書きまして、取扱所、これを連といいますが、水茶屋や居酒屋、風呂屋など人の集まる所にその紙を張ります。付け句の応募希望者は住所、氏名さらに付け句を撰するための費用を、これを入花料といいますが、大体12文程度を添えて、期日までに応募します。応募句が集まりますと、選者が約3%位の入選率で選出します。優れた作品には褒美を出しました。大体500文位の日用品、反物あるいは現金などを賞品としました。
前句付けの選者になりますと、12文×応募者数の収入があります。その中から、連やその他の事務所の費用、入選句をプリントする紙、印刷代、賞金費用などを差し引いた残りが、選者の真の収入ということになります。
さて、川柳は俳句と違いまして、季題や切れ字の制約がありません。ただ、十七字という枠の中にきっちり納めることが必要です。それさえ守れば、どんなものであっても構いません。ただし、俳句に見られるような自然現象ではなく、専ら飾らない人間の赤裸々な姿、生活、思想を詠います。そして、“おかしみ”“うがち”“風刺”を特色とします。これらは川柳にとってとても大切なものです。
選者としての川柳の選句は、彼の極めて質の高い鑑識眼と当時の人達の持っていた都会的嗜好を敏感に把握することによって、次第に名声を高め、いよいよ水準の高い投句者を多数得て、彼は数年の間に数万句が集まるという江戸随一の選者になったのです。
集まった数万句の川柳評のプリントをこのまま反故にするのは勿体ないと、川柳の友達であり弟子でもあった書肆の花屋九兵衛が、句集にして出版したらどうかと勧めました。その折、同様に友人であり弟子でもある呉陵軒可有(ご了見あるべし)が、それならば私が編集者になりましょうと話が決まりました。二人でこの出版物に「柳多留」と名前をつけ、明和2年5月(1765年)出版しました。
川柳が、この書の出版に際して、前句付けを全く新形式のものに改めようと考えました。従来の前句付けでは、必ず前句があって、付け句の句意を明確に導き、誰にも面白く、わかりやすくする働きを担っていました。しかし、良く考えてみれば、前句は、付け句全体を重くし、その独立性を損なわせている邪魔なものと考えられるものでもありました。そこで、前句付けから前句をカットして、付け句単独だけで充分鑑賞に耐える新形式のみで、「柳多留」を編集することにしました。
これまでは前句付けと言っておりましたが、ここに『川柳』と言われる文学が、川柳によってクリエイトされたのです。
[時代背景]
さて、川柳の話はこれくらいにしまして、川柳が活躍を始めた当時の江戸の街はどんな状態であったかを、極めてざっと申し上げることにします。18世紀末、宝暦、1751年〜1760年代の頃ですが、江戸の人口は100万人を超えていました。当時、地球上で一番大きな都会でした。この大都会を構成している人達はどうであったかと申しますと、人口のうち6割位が武家衆とその取り巻き連中です。すなわち、武士とこれに付属して地方から流れてきた侍、それから奉公人、下人です。さらに、その武士たちという非生産的の人間を支えるために生産業務に携わる町人衆です。このほかに、約28万人程の女性とその他です。ところで、この頃には、度重なる火山の大噴火、大火、冷水害などの自然災害、そのうえに、飢饉、農民一揆もしばしばありました。幕府はこうした厳しい状況に対し、減税、それも大減税を行わざるを得ませんでした。従来は、得た米の7割が幕府のもの、3割が国民という「7公3民」であった徴収率を、「3公7民」と逆転させました。この大減税は生産業、商品流通の大発展をもたらし、一挙に町民、庶民の生活を大向上させました。
例えば、庶民の食事は雑穀から米になり、1日2食が3食に、そして、衣類も麻布から綿、木綿に変わりました。また、掘立て式の家屋は石の土台を置いて柱を立てる現代的な建物になりました。従来、トイレは屋外でしたが、屋内に据えられます。灯りとして行灯が使われ、一家団欒や夜なべなどができるようになりました。
さて、経済的な状態がこのように変わりますと、人間の物の考え方にも変化が現れてまいります。いわゆる、価値観が大きく変わります。従来は、封建的な世界の中に生きていたのですが、対等な人間関係を尊重し、喜びを謳歌し、浮世への執着を強く持つ、一言で言えば、考え方が民主的な状態に変わります。
こうした経済的な大発展は、町民、なかんずく商人の力を強力にしました。これに対して、武士や侍たちは従前からの放漫財政が祟り、非常な窮乏状態に陥り、「商人が一度怒れば、大名どもはへなへなになってしまう」、「諸侯皆首を垂れて町人に無心を乞う」という状況に変わってまいります。川柳が大きく発展を始めた頃の状況はこんな様子であったと言えます。
[句の解説]
(武士階級の姿)
今申し上げましたような背景を句にしたのが、
「いたわしい 程いんぎんな 御不かって」のプリントの1番です。次の
「仕送りは 不風雅計り あんじ出し」(2番)です。
ここで「仕送り」の意味はと申しますと、大名や武士たちが放漫な財政運営を行いましたので、皆どこでも窮乏状態です。この窮乏状態を改善するために、財政再建担当の役人が命ぜられます。この担当役人が「仕送り」です。仕送りにとりましては、財政再建が第一ですから、優雅な風流事はどんどん切り詰められ、面白くないことだけが残ってしまいます。
「仕送りに 医者も及ばぬ 脈を見せ」(3番)も同じであります。
「仕送りが 付くとお妾 追い出され」(4番)も同様で、
お妾けなんか一番先におっぽり出されてしまいます。
「仕送りが できて座頭に 目鼻でき」(5番)
座頭とは盲人の高利貸しのことで、幕府は座頭金の取り立て先取権の特権を与え、優遇しました。このような連中からも、大名や武士たちは借りまくりました。座頭としては、返済してもらえるかどうか心配でなりませんが、仕送りが来たので、やれやれ目鼻がついた、ほっとしたという訳です。
「借金を ふむがこうしゃで 五人ふち」(6番)
屋敷の中で要領のいい侍は、借金を踏み倒すのが上手ですので、以後借金係りに任ずる、そのため、お前には5人扶持を増してやる、ということです。5人扶持といいますと、一人扶持が侍1人に米4斗俵で年間4俵ですから、年25俵です。かなりのお小遣いですが、当時の侍は子沢山ですから、生活は楽ではありませんでした。
「御出入り 三人扶持で 泣き寝入り」(7番)
屋敷に出入りを許されている御用達商人が、借金不返済の代わりに、汝を3人扶持の武士に取り立てると言われ、仕方なく泣寝入りしたということです。
「知行から 来る内 寺で五俵かり」(8番)
高級な武士の家では、離れている知行地からの年貢米がすぐにはまいりません。暫時のやり繰りに、大変に裕福な旦那寺から借りて、一時を凌ごうでないか、という訳です。
「やみやみと 座頭へ渡る 町やしき」(9番)
座頭金を沢山借りたので、残念ながら、無理矢理に広大な屋敷を取り上げられた、ということです。
「役人の 子はにぎにぎを 能く覚え」(10番)
これはご存知のことですので、省略します。
「三両で 常ぎらで居る 其ひどさ」(11番)
理想的な武士として、幕府が申してきた言葉は、「威富兼備」でした。武士たる者、常にしっかりと堂々として尊敬される状態でなければならない。そうであってこそ、人民を支配できるのだ。林羅山なんかも盛んに喧伝していますし、井原西鶴もその小説の中で申しております。例え、玄関番であっても、「威富兼備」堅持のため、常日頃美服を着用し、美々しくせねばならない。これが常ぎらということです。玄関番のような侍は、大変薄給で年3両が決まりです。他の奉公人、例えば、下女などは良くても年1両程度ですから、それよりはいいのですが、それでも美服をと言われても、3両ではやっていけないという悲鳴です。
「小侍 蜘蛛と下水で 日を暮らし」(12番)
小侍というのは、下級旗本などの雑用や小用に仕えている子供です。小侍たちは給料も少ないし、殿様も年中貧乏でピ−ピ−しておりますので、アルバイトをします。鶯の餌の蜘蛛採りと、金魚の餌用に下水でボ−フラ採りに、一日中夢中で過ごす訳です。
「蔵宿で よんどころなく 反りをうち」(13番)
蔵宿は、侍に与えられた扶持米を預かりまして、必要に応じてお米を換金して渡す金融業者です。かなり高利を貪っていたようです。侍は金子がなくなると、いつでも蔵宿で換金してもらう訳ですが、扶持米がなくなりますと、すげなく拒絶されます。そこで、何だこの野郎と抜刀の身構えで脅すのです。
「御指南を 受けましたらと 飯につき」(14番)
当時、求職者は直接その家にまいります。そして、主人あるいは別当にその能力を試してもらいます。主人がその能力に満足しますと、御膳を出します。もし、この家が気に入らない場合は、出された食事に口をつけずに失礼します。奉公を決意した場合には、御指南、御指導をいただけましたら有難く存じますと、御膳をいただき、契約が成立します。
「借りのある 家へ提灯 紋尽くし」(15番)
大晦日の夜、掛取りの商人たちは各々紋付の提灯を提げて、大名の屋敷や旗本の門内を埋めて、支払いを待って押し込みます。まさに門内一面が紋尽くしで埋まります。
「いくらいり ますと質屋は ずらり抜き」(16番)
侍はいよいよ窮乏しますと、武士の命である刀を質に置くしかなくなります。質屋の番頭は、持ち込まれた質物の刀をずらり引き抜いて鑑定し、この程度の物と値踏みをします。質屋稼業では、決して自分の方から貸値を言っては負けだそうです。おいくらをお望みですかと尋ねます。侍の言う金額が気に入らなければ、断ればいいのですから。
「目釘迄 ぬくは壱両 からの質」(17番)
これも同じ質屋ですが、番頭は侍が持参の刀身を見ただけで、これは壱両以上の値物と見て、刀工名を確かめるために目釘を抜いて、柄に刻まれた銘を調べます。
「ばかされた やうに日用は 二本さし」(18番)
どこの大名家でも、武士方でも、行列のお供などは年中雇っておく訳にはまいりません。必要に応じて日雇いを使用します。特に、正月の3日間は各種の行事があり、その需要は多かった。彼らは常日頃刀を差しつけないので、不自然で、不恰好で、まるで狐に化かされたような妙ちくりんな姿なのです。
「馬方の 表でどなる 組屋敷」(19番)
御家人、与力、同心など同一職種、同一所属の人たちは一箇所に集まられ、屋敷を賜って住んでいます。皆同じような家で、表札もかけてありません。従って、初めて荷物を運んできた馬方などは全くどの家かわかりません。そこで、仕方がないから、長屋の前に立ち、大声で名前を怒鳴るのです。
「杖つきの 酔われたとこは 盛り直し」(20番)
杖つきとは、幕府の建築係、土地測量の役人です。役得で振舞い酒に酔って水準の測量を誤ってしまいました。そこで、そこの場所をちゃんと測量し直しておきました。今の役人よりは遥かに良心的だったと言えそうです。
「こう持って 弾きなと留守居 笑われる」(21番)
各藩の本拠地は地方にあるため、江戸へ外交官として留守居役が派遣されます。留守居役は常に顔を広めておくことが大切で、しばしば寄り合いの宴会を開きました。多くの場合、料亭で踊り子を交えて、どんちゃん騒ぎが伴いました。古参の留守居役は踊りも三味線も上手ですが、新しい役人は殆どが野暮天ですから、三味線などは初めてです。そこで、先輩の役人や芸者などが「旦那、こうやるんですよ」と笑いながら、持ち方から弾き方まで手ほどきしてくれます。外務省のような事件のはしりですね。
「わたし値で けん見の供は 二反買い」(22番)
年貢の高を決める作柄調査のための検見の役人がおります。この役人の供の役人が役得で、調査対象の家が織り上げた反物を原価で2反買いました。役得とはいいものですね。
「屋敷替え 白い狐の 言い送り」(23番)
身分のかなり高い幕府の役人は、役柄が変わるたびに、上司から屋敷替えを命ぜられることが多くあります。それで、移転に際して、後の住人に「あのお稲荷さんの裏の穴に白狐がいます。私たちは毎日油揚げ2枚、そして、月の一日、十五日にはさらに赤飯を供えます。どうぞよろしく」と申し送ります。お狐さまは優遇されていましたね。
「中川は 同じ挨拶 して通し」(24番)
江戸の中川と小名木川の合流地点に船番所があり、釣船、遊山船、運搬船など多種多様な多数の船が通過します。そのたびに、船からは「通りま−す」と呼びます。すると、役人の「通れ」と決まった文句の挨拶が戻ってくるのです。
「物もふと いわるる迄に 成りあふせ」(25番)
門前に来客が参り、「物申す」と案内を乞うような、堂々とした立派な屋敷に住まう程の立志伝中の侍に成った幸せ。「よきかな、よきかな」であります。
「奥家老 らせつしたのを 鼻に懸け」(26番)
奥家老は、家老職ではありませんが、多くは老齢者が任命されました。大名屋敷の御殿女中の取締役です。男子禁制の場所に勤め、多数のお女中、奥女中たちの規律、風紀、健康管理など一切を管理、監督する役目を持ち、決して容易な役ではありません。美形の女性ばかりの中ですから、不埒な思いを抱くこともあり得ますので、常に身の潔白を持さねばなりません。殿様に自分の潔白と忠誠心を示すために、羅切、つまり中国の宦官に倣って、ばさっと落してしまい、それを自慢げに触れ歩く、嫌な野郎もいました。(上級商人の姿)
以上、「威富兼備」に破綻が現れ、次第に窮乏していく武家衆の状態を見てまいりましたが、これからは江戸の商人に移してまいりましょう。それも先ず、呉服屋のような中流以上の町人を取り上げます。その1番目が
「ふじがよく 見えると天和 見世を出し」(27番)です。
大幅な減税が庶民生活の向上を招いた好機に素早く乗じて、「現金安値掛値なし」の新商法を始めたのが、駿河町の三井越後屋呉服店です。江戸一番の人気を占めました。同店の商法は、従来のように、経済的に行き詰まった大名,武士を顧客にした年末一度勘定の非効率な商売よりも、小口でも現金支払能力のある大衆を相手の現金商売にした方が効率的だとする、画期的な新商法でした。駿河町に店を開いたのは1683年、天和3年です。それより10年前に江戸に店を開きましたが、江戸中の呉服屋から排斥されたり、大火があったりと種々問題があったのです。店は駿河町の大通りを挟んで、真正面に富士山が見え、片側が絹物などの呉服、反対側が木綿物を扱いました。
「駿河町 めしを三石 一斗たき」(28番)
さて、越後屋の奉公人の数は大変大勢です。何人位だったでしょうか? 3石1斗を毎日食べる訳ですから、男子1人が1日4,5合とみましょう。3石1斗のうちの1斗は、10両程度の買い物をした上得意客用の御膳です。1日20人以上の来店客です。残りが奉公人用ですから、単純に計算すると、600人余となります。でも、これはちょっと多過ぎます。無駄飯もあることを計算に入れて、少なくみても300人は下らなかった筈です。真に大変な大所帯であった訳です。「盗っ人に あって三井の 飯を喰い」(29番)
泥棒に入られ、家中の着物を全部盗まれてしまい、越後屋で誂えた。さぞ10両からの出費であったろう。極上客の膳部のご馳走に預かったが、やれやれだ、ということです。
「越後屋の 前迄傘へ 入れてやり」(30番)
越後屋はお得意の方々に俄雨に遭った際、傘を貸すというサ−ビスを致しました。傘には、今の三越のマ−ク、丸に井桁に三というマ−クを大きく描いてあります。当時の人々はこの傘をさして江戸の街を歩きたいという願望を強く持っていました。当時のステイタス・シンボルでした。そこで、友達のところで俄雨に遭いますと、越後屋までこの傘で送ってもらい、得意げに帰る訳です。江戸っ子はこのように見栄っ張りなのです。
「呉服見世 まけなさいよと ひつらこさ」(31番)
“ひつらこさ”とは非常にしつっこいことです。この頃になりますと、どこの呉服屋でも越後屋を真似して、現金掛値なしを標榜し始めます。まけないのが原則ですが、腹の太いおかみさんはまけろとしつっこく店で粘ります。
「判とりは 売上を切る 時に呼び」(32番)
大きな呉服屋には沢山の番頭や手代などが並んでいます。客は、選んだ品物を手代に示し、現金を払いますと、その値段を傍らの半紙に記し、大きな声で「判とり」と呼びます。すると、「は−い」と丁稚が長い返事をして、現金と今記した売上伝票を持ち、番頭に差し出します。番頭は現金と売上伝票を良く調べ、現金を収納して、売上伝票に判を押して、丁稚から手代に渡します。これで売上の計上と現金の収納事務手続きは終ります。
「つね体の なりでばんとう どらを打ち」(33番)
「すががきの 中を手代は 出て帰り」(34番)
同様の句ですので、同時に解説します。いつもは店で、りゅうとした姿で真面目な顔をしている番頭も手代も、用事で外出しますと、時間を案配して吉原へ、いわゆる昼遊びに走ります。昼遊びと夜遊びとでは値段がまるっきり違います。六つ時、今で言うと、大体午後6時頃ですが、この頃になりますと、吉原の暇な女郎が総出で見世先に並び出て、一斉に三味線をじゃらじゃらと鳴らします。別に曲はないのです。これで昼見世は終わりで、これからは夜見世の始まりです。この三味線を“すががき”と言います。悲しいかな、奉公人はこの時までには店に戻らねばなりません。
「つけ登せ つついっぱいの 路銀かな」(35番)
奉公人が使い込みなどで店に損害を与えた場合、お前のような奴はもうここに置けないと、途中不埒がないように監視の付人を付けて、郷里に送り返えされます。しかも、ぎりぎり一杯の路銀しか渡されません。不名誉なこと限りなしです。
「ばけそうな 花むこの出る するが丁」(36番)
大店の番頭もなかなか大変なのです。丁稚小僧に奉公してから最初の階級の手代になるのに、最低14年位掛かります。14年で手代になってからは、成績によって小頭役になります。以後は勤務状況により、最高の支配人まで昇進できますが、少なくとも30年程掛かります。丁稚から最高の番頭になるには早い人で40歳位、普通では50歳を過ぎてしまいます。それまでは妻帯は許されませんし、店の外に家を持つことも許可なしには不可能でした。ですから、越後屋さんからの婿さんは、余程よぼよぼになった婿さんが出てくるに違いないだろうと、穿った見方をした訳です。それでも、お嫁さんをもらえたということは大変幸せであったのです。非常に堅く真面目で要領の悪い番頭になりますと、嫁さんをもらうチャンスがありません。要領が良ければ、内緒で妾を囲うとか、いい人ができて子供をつくることができるのですが、堅過ぎる番頭は言いそびれて、いよいよ死ぬ時になって、実は俺にはどこそこに子供がいるんだと泣き泣き告白するという悲劇もあるのです。この句が37番の「ばんとうの まつごに子ある ことをいい」なのです。
「伴頭は 内の羽白を しめたがり」(36番)
そんな訳で、大店の番頭が嫁さんを得ることは大変でした。そこで、手っ取り早く旦那に気に入られて、家の娘を嫁にしてしまおう、そうすれば色と欲の二筋道がうまくいくのではないか、と番頭がうずうずしているのです。
「主の縁 一世へらして 相続し」(39番)
番頭あるいは手代が幸に見込まれて、年頃の主の娘の婿になれると、旦那と自分の間は三世の縁、主従は三世と言われるが、娘と二世の契りを結んだ夫婦となったので、一世減らして、同時に店の相続人となり、誠にめでたしであります。
「御新造と 内儀と噺す 敷居ごし」(40番)
町人の世界におきましても、実際は身分制度、地位の違いはあるのです。御新造と言われるのは本店の奥様です。お内儀は出店のおかみさんで、身分が違います。従って、二人が話し合ったり、いろいろと世間話をしていても、お内儀は遠慮があるんです。それで、お内儀は敷居越しに御新造に丁寧な応対をしています。こういう床しい姿があったのです。*坂本先生が選んだ句は全部で187ありますが、今回は残念ながら時間切れになってしまいました。残りの句の解説については、講演録「川柳から見た江戸の庶民」(後編)をご覧になって下さい。(了)