栄田 卓弘
東久留米稲門会顧問 早稲田大学名誉教授
平成15年3月30日(日)開催された第9回定時総会に先立って恒例の文化講演会が開かれた。講師は当会顧問で早稲田大学名誉教授である栄田卓弘氏で、演題は「反骨の言論人 浮田和民−早稲田大学草創期の巨人−」。講師は西洋史が専攻で、「近代イギリスの自由と歴史」、「歴史と歴史家たち」、「ヨ−ロッパの光の中で」のほか著書、訳書、研究発表など多数。
本日は、浮田和民についてお話しいたしますが、恐らく皆さんのなかには彼について知る人は少ないかと思います。 しかし、大和田茂氏の指摘しておりますように、浮田は徳富蘆花の自伝的青春小説『黒い眼と茶色の眼』(大正3年)に登場しています。蘆花は同志社の教員に寸評を加えましたなかで、「病人の様に蒼黒い顔をして万巻を読破した窪い眼は常に内の方ばかり見ている沈田さん」として描かれております。また、尾崎士郎の『人生劇場』(青春篇)(昭和8年)では、大正6年のあの早稲田騒動の折、正門でピケを張っている学生に対し、「早大教授長坂良民だ」「詰問される理由はない」と竹刀を持った学生に対峙する気骨のある「老教授」として登場しております。これらの小説を読まれた方々のなかには、あるいは想い当る方もあろうかと思います。なお、浮田の写真は、『早稲田学報』の昨年12月号51頁に、高田早苗、市島謙吉、坪内逍遥とともに写ったものが掲載されております。また、私自身、『東稲ニュ−ス』(5号)で、浮田の超俗的な逸話をいくつか紹介したことがあります。ところで、西洋史学を専門とします私が、浮田和民を取りあげましたのは、副題に掲げましたように、彼が早稲田大学草創期の巨人の一人であり、また大隈重信のブレ−ンでありまして、大学の発展に貢献された先達でもあるからでもありますが、とりわけ、彼が私の専攻します西洋史学の早稲田における創設者だからであります。その雷名は私の学生時代の恩師や先輩から断片的に聞き及んでおりました。退職後時間の余裕を得ましたので、この先人の作品を読み進みますうちに、聞きしに優る卓越した学者であり、言論人であることを実感いたしました。
本日は、彼の思想の全容ではなく、彼の言論活動のうち反骨的な面を中心にお話したいと思います。なお、この主題につきましては日本自由キリスト教会で話し、活字にもなっておりますが、ごく狭い範囲のことですので、それを元にお話しいたします。のちに改めて略歴は申しますけれども、浮田は同志社の教授を経まして早稲田大学に転じ、政治学、歴史学、社会学などを講じました。さらに大学教授としてばかりでなく、浮田は明治42年(1909年)から大正8年(1919年)まで約10年間綜合雑誌『太陽』の編集主幹ないし主要執筆者として自由主義、民主主義のための論陣を張りまして、吉野作造や大山郁夫などに大きな影響を及ぼし、大正デモクラシ−の先駆者と称されるのであります。
一方、彼は明治42年(1909年)、主著『倫理的帝国主義』をあらわしまして、従来の武断的侵略的帝国主義とは異質の一種独特の帝国主義を主張いたします。当時の世界は正に帝国主義の時代でありまして、浮田もその流れに掉さすもので、帝国主義者でありました。しかし、彼自身の表現を借りますと、帝国主義からその「いまわしい要素」を極力取り除こうと努めたのです。つまり、彼が主張します帝国主義は従来のような武力を用いるのではなく、国際法にもとづいて人口過剰の日本人を世界各地に平和的に侵出させようとするものでありまして、民主主義や自由主義とも両立し得るような平和的合法的帝国主義であります。しかし、時局が変わりまして、日韓併合、満州事変、上海事変が起きますと、従来反対していました韓国や満州の日本支配を浮田は是認するようになりました。
そこで、最近の浮田和民研究では、武田清子氏のように浮田を「骨太の自由主義的なデモクラット」とする評価に対しまして、栄沢幸二氏のように浮田の「立憲的帝国主義論が第一次大戦以後の歴史のなかで破綻した」とする評価や、中村尚美氏のように「浮田の『帝国議論』が恰好の侵略的イデオロギ−として国家主義者、帝国主義者に利用されることになった」という評価とが対置されることになりました。これらの評価の是非を明らかにしますことは大変興味深いところでもあり、また、極めて重要なことでもあります。しかし、そのような作業は私の能力をはるかに越えるものでありますと同時に、与えられた時間では浮田の思想の全貌を明らかにすることはできません。そこで、ここでは、表題に掲げましたように、浮田の活動のうち時流に抗して敢然と自説を主張して曲げなかった彼の言動のいくつかを紹介するにとどめたいと思います。
本題に入ります前に、浮田和民につきましていくらか紹介しなければなりません。浮田は黒船が神奈川に2度目の来航をしました安政元年(1859年)、肥後の国(今の熊本県)竹部に肥後藩士の子として生まれました。幼名は栗田亀雄といいます。のち、栗田家が関が原の戦いにおきまして西軍の敗将になります、あの宇喜田秀家の後裔であるというところから、浮田姓を名乗ることになりましたし、4歳の時、亀雄という名も和民と改めました。以後浮田は太平洋戦争終戦の1年後まで長寿を保ち、1946年、88歳で世を去ります。そこで彼は、日清・日露の戦役後旭日の勢いで日本が世界の舞台に踊り出てから、今次大戦で敗戦の憂き目を見るまで、明治、大正、昭和を通じまして日本帝国の盛衰を身をもって体験することになります。そして、それぞれの時期に注目すべき発言を行っているのであります。
ところで、浮田が日本の歴史に登場しますのは、キリスト教徒としてであります。明治4年(1871年)に彼は熊本洋学校に入学いたします。この学校は肥後藩中の開明派によって建てられたもので、浮田は13歳でその最初の入学生となりました。この学校には、教師としてアメリカから陸軍後備大尉のL.L.ジェ−ンズ(ゼ−ンス)が招聘されまして、イギリスのパブリック・スク−ルでありますラグビ−校の校風にもとづく教育によりまして、生徒たちに強烈な影響を及ぼしたといわれます。彼はキリスト教の布教を主目的としたわけではありませんが、その聖書購読を通じて生徒たちにキリスト教が浸透してゆきます。
こうして、明治9年(1876年)1月30日、洋学校の生徒のなかから日本のキリスト教、特にプロテスタント史上逸することのできない動きが生じます。それは熊本バンドと呼ばれるもので、洋学校の生徒35名が熊本郊外の花岡山で奉教趣意書に署名しまして、キリスト教を日本に広め、人民の蒙を啓くことを誓約いたしました。これに署名した者の中には伊勢(横井)時雄、森田久万人、宮川経輝、海老名弾正、金森通倫、徳富猪一郎(蘇峰)といった人々の名が見られますが、浮田和民もそこに名を連ねております。その年、浮田はジェ−ンズから洗礼を受けまして、ト−マス・浮田と称します。
しかし、熊本は極めて保守的な風土のところでして、廃刀令に反対しまして、同じ年の10月に士族の反乱、神風連の乱が起きますような土地柄であります。そういうわけで、この盟約によりまして、この洋学校に対する風当りは強くなり、生徒の多くは新島襄の同志社に移ることになり、浮田もそれと行を共にいたしました。洋学校は翌年8月に廃校の浮目をみるのです。
浮田は晩年に、この盟約に加わった第一の動機はキリストへの信仰の熱情よりはむしろ熊本の因襲に対する反抗からであると述べたとのことです。このようなことは他の人々にも多かれ少なかれ見られますようで、花岡山盟約へ最少年で加わりました徳富猪一郎にいたっては、自分が参加したのはまったく「附和雷同」からで、「キリスト教に一生を捧げる了見は露程もなかった」と言っているほどでした。
しかしともかく、これを契機に浮田がすでに少年期に文字通りキリスト教の洗礼を受けておりますことは、彼の生涯にとってまことに重要な意義をもつものでありまして、その後、彼はキリストを神の子ではなく人間であるとしますユリテリアンに転じ、さらにキリスト教に限らず、宗教の一般の必要性を強調します、明治45年(1912年)帰一教会の設立に参加するなど、紆余曲折を経ますが、キリスト教は彼の生涯の一つの重要な基調をなすことになります。と同時に、この盟約への参加には、のちに見ますように、通説や一般の風潮に対しまして敢然と自説を開陳して動じないという、いわゆる「肥後もっこす」の一面がすでに現れていることも興味深いことであります。
こうして浮田は、同志社英語学校で哲学と神学を学びました。卒業の翌年、20歳で大阪天満教会の会頭となり、1年間在任しますが、明治19年(1886年)28歳で同志社政治学校の講師となり、歴史学を講じます。明治25年(1892年)から27年(1895年)までアメリカのエ−ル大学に留学しまして、歴史学、政治学および社会学を学びました。しかし、明治37年(1895年)『六合雑誌』に発表しました「外国人宣教師論」で外国人宣教師を厳しく批判しましたことが、同志社の外人教師の激昂を買いまして、翌々年同志社を辞任することになります。ここにも彼の歯に衣着せぬ態度、見解の表明の一例が見られるでしょう。同年彼は、早稲田大学の前身であります東京専門学校に招かれまして、西洋史学を担当いたします。東京専門学校に彼を招聘しましたのは、同志社の先輩で当時早稲田におりました大西祝の推薦と坪内逍遥の尽力によるのです。
こうして、浮田と早稲田大学との長い関係が結ばれるのですが、彼の招聘に先立って一つのエピソ−ドが語り継がれております。当時、東京に学ぶ学生たちが関西に帰省するには、横浜から船に乗るのが通例になっていました。ある時、船上でさまざまの学校の学生たちがそれぞれの学校自慢を始めました。各校の学生は、自分の学校の設備の充実と外観の美しさを誇らしげに語りましたが、東京専門学校の学生は請われて、こう語りました。
「早稲田は田園の中の森にできた貧弱な学校ですが、先生と学生が一体となって真理の探究に務めています。これが誇るべきことでしょう」
たまたまこの船に乗り合わせていました浮田は、つかつかとその学生に近付き手を握り、「君のお話で初めて美しい学校が日本にあることを知りました」と言いまして、このような学校こそ自分の教えるべき学校であると考えて、早稲田に移ったというのです。
この話は一寸出来すぎのように思われますし、このことだけで浮田が早稲田に来ることになったとも思われません。しかし、大西や坪内らの要請を受けた際に、浮田が躊躇なく引き受ける一因となったことは想像に難くありません。浮田は同時に受けました官界からの勧誘にも動ずることはなかったのです。この話は学問教育の原点を教えるものともいえましょう。ともかく、浮田は早稲田を去るにあたりまして、「早稲田大学は、私にとって意気投合した学園であった」と述懐しているのです。
こうして浮田は、早稲田大学に根をおろし、はじめに述べましたように、以後、文学部、政経学部その他で西洋史学、政治学を講じ、一時期を除きまして、44年間早稲田の教壇に立ち続けました。その間、浮田は法学博士の学位を受け、文学部史学科教務主任、初代の図書館長、高等師範部(現教育学部)の長なども歴任しました。また、先に述べましたように、雑誌『太陽』に拠りまして日本の言論界の指導的役割を果たしたのであります。このように、浮田は同志社の出身ですが、早稲田のいわば骨を埋めることになります。
しかし、彼以外にも、彼と前後しまして、大西祝、安倍磯雄、岸本 武太、内ケ崎作三郎というような同志社出身者が早稲田大学に来り投じまして、早稲田に新風を吹き込みました。私の恩師で西洋史の大家煙山専太郎は、「早稲田に魂を吹き込んだのは同志社である」と評したことがありますが、この評価はほぼ一般に受け入れられているようであります。ところで、浮田は、政治、社会、教育、宗教、文明などさまざまな分野にわたりまして論じておりますが、その際、彼は古今東西の政治、哲学に歴史、さらには社会学、特に当時流行のハ−バ−ド・スペンサ−の社会進化論についての学識を縦横に駆使して雄渾な議論を展開しております。本題に入ります前に、浮田の思想の基調となります分野のいくつかを触れておきたいと思います。
なによりもまず重要なのは立憲政治の主張です。彼は自由主義者、民主主義者として、憲法による政府権力の制限、人権の擁護そして言論・思想の保証を求めます。浮田が望みましたのは、イギリスやアメリカの憲政史についての豊富な学識に基づきまして、真の議会政治をわが国に確立することでした。とりわけ、その基本をなします真の政党政治の実現の必要を強調するのです。選挙につきものの腐敗防止につきましても、一頃日本でも強調されて、今では忘れられてしまいましたが、1883年のイギリスの「腐敗行為防止法」の重要性をも、この時すでに彼は強調しております。また、一般国民の政治意識の向上の必要を指摘することも忘れておりません。こうして彼は、日本国民に普通選挙あるいはそれに近いものを与えることを主張したのであります。
人権の擁護の好例としましては、幸徳秋水ら無政府主義者が処刑されました明治43年(1910年)のあの大逆事件に対する浮田の批判があります。彼は非公開の大審院の審理だけで無政府主義者を断罪するのは、正に法治国の恥辱であると論じまして、時の桂内閣を痛烈に批判しました。もとよりこのことは、彼が無政府主義者に好意を寄せていたからではありません。彼は別のところで、社会主義と無政府主義を区別しまして、幸徳秋水らが処刑された理由を「嘗って社会主義者であったが、彼らが無政府主義者となったのみならず、犯罪的な無政府主義者になった為に処刑せられたものである」と述べております。彼が反対しますのは、政府が彼ら無政府主義者の人権を無視し、合憲的な裁判の手続きをとらなかった点にあったのです。彼は自らの意見に反対の者にも憲法の定める人権を認めさせようとしたのでありまして、このような姿勢は彼が真の自由主義者であることを如実に示すものであります。
以上紹介しましたような浮田の自由主義民主主義の主張は、今でこそ陳腐なものですが、明治の末から大正にかけての時期におきましては、極めて重要な意味をもつのでありまして、はじめに述べましたように、これによって浮田は大正デモクラシ−の先駆者となったのです。民本主義を唱えまして大正デモクラシ−の代表者と称されますあの吉野作造が、「自分をデモクラシ−に導いたのは早稲田の浮田和民と安倍磯雄先生」だといい、『太陽』の浮田の巻頭論文の諸頁には「ずいぶんひきつけられた」と述懐しておりますことは、あまりにも有名なことであります。
このように自由主義と民本主義の主張とかかわりの深いものに浮田の女性解放論があります。浮田は以前から婦人問題に関心をもっておりましたが、『太陽』の主幹として特輯号「近時之婦人問題」(大正2年 [1913]6月)を編み、自ら巻頭論文を書き、同年の『中央公論』の「婦人問題」と共に当時のジャ−ナリズムにおける婦人問題特輯の双璧と見做されています。この婦人問題は、当時、彼自身の表現によりますと、男性の間では「一種の笑話」とされておりましたから、浮田の主張は、いくらか反骨の趣きをもつものともいえましょう。浮田はこの問題の興隆は「世界共通の現象」であると捉えます。ヨ−ロッパでは、フランス革命以後、日本では明治維新以来、四民平等の理想が実現されるようになりました。しかし、「独り男子と女子の間にのみ貴賎の制を存せんとするのは固より不条理なるのみならず、最早や時勢の許さざる所である」と浮田は論じます。明治39(1905)年の末にはすでに平塚らいてうが女性解放ののろしをあげておりました。浮田は、青踏社、真新婦人社の如きも、「是を運動と称するに足るや否やは疑問である」と評しましたが、「唯明治大正を通じて進歩の道程を追ふて居ると云い得るものは婦人問題の研究である」と評価しております。浮田は、平塚明(はる)の第一評論集で発禁の浮目をみます『円窓より』を一読の価値あるものと評価し、「見もせず、読みもせずして妄りに雷鳥女史を非難するは我輩の取らざる所である」と書き、青踏社の婦人たちの吉原見物に対する世間の非難に対しましても、「男子の吉原出入に比べ何れが道徳上の大罪悪であるかは一個の疑問である」と論じております。「新しい女」につきましても、浮田は「唯だ之を嘲笑し若しくは政治の権力を籍りて之を撲滅せんとするばかりではいけない」といい、「先づ能く事実を確かめ且つ新婦人の心理を研究することが肝要である」とし、「婦人の本能及び天性に関して誤解がある」ことを遺憾としたのであります。
ところで、浮田が求めますのは、まず、男女平等の人権の要求です。実際上の一夫多妻制であります蓄妾や待合・遊郭への出入といった男女平等に反する法律や習慣を廃せよと彼は論ずるのです。浮田はまた女子のために職業の自由を主張いたします。女子は結婚すれば他の職業を求める必要がないという見解に反論するのです。現実に婦人が工場や農場で働いている点を指摘しております。のみならず、「女子に独立生活の能力あれば、それだけ社会の貧困を済い、国民一般の富を増加することになる。」、しかも、このような「独立の能力ある婦人にして始めて結婚の資格も完全である」と論ずるのです。
しかし、浮田がもっとも力をこめて論じておりますのは、女子教育の自由です。浮田は女子の天職を「子を生み其子を養育すると云ふ点」と優れた男子を生む点とにその価値を認めるという旧来の女性観から出発します。しかし、彼女たちは「その為に勢力を十分の八まで費やしている」から「男子に勝る天才があっても」「女子にはそれが現れぬ」のであると論じます。そこからしまして、彼は「女子の発達を為さしめない」ことを国家にとって損失であるというのです。「女子教育を無視することは、詰り男子が自分の足を切るのと同じである」とも述べまして、女子教育の必要性を強調いたします。「女子教育の必要は単 に女子のためばかりでなく、同時に男子の為めであり、従って国民全体の為め」なのです。こうして彼は女子のために高等教育をも要求するのであります。
さらに、浮田にとりまして婦人問題は国の文明度の指標でさえありました。「婦人の苦を軽んずるは実に文明進歩の特徴」であります。彼はまた「婦人を軽蔑する国民は進歩せる文明に達す可き必要の資格に欠けり」と痛論しております。「日本女子教育の程度が西洋ほど普及し又た西洋ほど高度に達せざる限り日本の文化は何時までも西洋に優ることは不可能であろう」と彼は考えるのです。さらに、浮田は、彼が私淑しますJ.S.ミルと同様に、婦人参政権を主張しましたことはいうまでもありません。彼は欧米における婦人参政権運動とその成果を紹介しつつ、日本における婦人参政権の実現を主張したのです。彼はなお、昭和8年(1933年)はじめに早稲田大学に設立されました婦人問題研究会の会長に就任しております。彼は20世紀を「婦人の世紀」であると評してはばからなかったのであります。前置きが長くなりましたが、ここから婦人問題以上に文字通り浮田が時流に抗して断固として自説を曲げなかった、いくつかの例を紹介いたします。彼の人柄につきましては、普段はきわめて穏やかで謙遜な人であったといいますのが、彼を知るほどの人々の間で共通の印象でした。教え子の一人大山郁夫は、日露戦争の際の浮田のいわゆる「俘虜留学論」に対しまして、佐藤正将軍その他の猛烈な非難攻勢に対し浮田が毅然とした態度をとって譲らなかったことにつきまして次のように評しておりました。「浮田先生があの婦人の如き温容且つ短躯、ドコに一世を超越して所謂武人の典型人物[佐藤正]の批難を、あの軍人萬能の時に物ともしない勇気があるのかと怪しまるるに似ず、遂にその主張に忠実であられたのは、実に敬服の外はない」というのです。そこでまず、この「俘虜留学論」についてお話いたします。
当時一般に武士道の精神としまして、生きて虜囚の辱めを受けるよりは、自ら命を断つ方が潔いと説かれていました。これに対しまして浮田は捕虜になることは恥ずべきことではない、自殺するのは無駄死であると論じたのです。
ところで、事の起こりは、日露戦争中に起きました軍の輸送船・常陸丸と佐渡丸とがロシア艦隊の襲撃を受けた事件です。この事件は連戦連勝に酔っていました日本国民に大きな衝撃を与えました。明治37年(1905年)6月17日付の『時事新報』によりますと、15日午前11時頃、常陸丸と佐渡丸とはウラジオストック艦隊に属します3隻の軍艦から砲撃を受け、常陸丸は長門沖で撃沈され、佐渡丸は大破しました。ボ−トで脱出して救助された者もおりましたが、乗船していました連隊長は連隊旗を焼き捨てましたが、砲弾を受けて戦死し、将校の大部分は割腹またはピストル自殺を遂げたと報ぜられました。この報道に見られます軍人たちの行為は一般日本人には武士道の鑑とうつりました。壮烈な割腹の有様は絵に描かれ、琵琶歌や芝居にもなり、当時はやりの「のぞき眼鏡」などでももてはやされましたし、小学校唱歌にも歌われました。
しかしほどなく外電によりまして、そのような壮烈な話は誤報で、実際は軍人たちがモスクワ郊外の捕虜収容所でかなり安穏な生活を送っていることが判明しました。軍や識者の一部はこれを知って大いに慨嘆しまして、彼らを国民の恥さらしであるといい、今からでも自決すべきであるという議論が沸き起こりました。
このような議論に対しまして、浮田は敢然と反論します。明治37年9月18日、東京教育会で行いました「日露戦争と教育」と題します彼の講演は大きな物議を醸すことになります。その内容の一部と反響とが雑誌『太陽』(第10巻第14号)の「評論の評論」欄に紹介されました。
浮田は講演のなかで、日露戦争について三つの「発明」があったといいます。一つは、わが国が今日あるのは「忠君愛国」ばかりでなく「開国進取の精神」があったからであること、もう一つは、この度の戦争は国の「安危」にかかわる大戦争ではあるが、今日のような挙国一致の主戦論では困るということ、つまり、「一方に主戦論があれば、一方に平和論」がなければならない、主戦論だけでは「一本足で立つが如く危険この上」ないのでありまして、平和論者の批判が必要であると彼は主張するのです。これは要するに、どのような場合にも反対論の必要を認めるという浮田の自由主義の表れといってもよいでしょう。
しかし、とりわけ物議を醸しましたのは、浮田のもう一つの発見でした。それは日本の武士道にいいます「討死を名誉とすることを非とすること、殊に戦闘不利なればとて我れと刀を取て自殺するなどはわるい」、「出来るだけ身を全うして長く国家の為に尽くさねばならぬ」。捕虜というのは自らの費用で留学したも同然で、その国の現状を知る絶好の機会を得たのであるから、寧ろ国家にとっては好都合であるというのです。これが、浮田の説が「俘虜留学論」といわれるゆえんです。彼によりますと、日本の武士道の形式は、欧米に学んで改めなければならないのです。彼は「義務の為に死するは嘉すべきなれども、名誉のために死するは真の名誉の死に非ず」といい、「戦闘の力尽き」て「自殺すること」は、日本人にとっては美であり、勇気があると思われても、西洋人にとっては罪悪であり、一種の病気があり、賤しむべきことであり、勇気が足らず、野蛮であると述べております。彼はまた、「敵軍に捕えられたる者は、最も尊敬を以て優遇される時代なり。然るに猶且つ旧時の形式に固守して捕虜たらんよりは自殺せよ割腹せよと要求するが如きは戦闘の目的に対して殆ど無意義の事に属する」と論ずるのです。さらに浮田は言葉をつぎまして、「戦争に出たものが討死を名誉として悉く死で仕舞えば、日本は其儘滅亡するであろう」とさえ主張しております。
このように浮田の見解は、のちに述べますように、欧米の考え方にもとづきまして日本の武士道の行き過ぎを批判したものといえます。
こうして論争は、『太陽』の記者が指摘していますように、主として「軍人は義務の為に戦うべきが是なるか、或は名誉の為にすべきが是なるか。而して挙国一致なるものが是か非か」という問題をめぐるものと捉えることになります。
まず反論に立ち上がりましたのは、佐藤正将軍でした。将軍は日清戦争にあたりまして、先頭を切って鴨緑江を渡河し、勇猛果敢に戦いまして片足を切断する重傷を負い、「鬼大佐」と称せられました。のち少将で退役しまして「隻脚将軍」と異名をとり、国民的人気を博しておりまして、当時は愛国婦人会の事務総長をつとめていました。彼は10月2日付の『日本』紙上に談話という形で浮田に猛然と反対を加えました。日露の開戦以来、日本が連戦連勝をつづけているのは、ロシア兵が義務の観念をもって戦うのに対し、日本兵は名誉の観念をもって戦うからにほかならない、と彼は論じます。つまり、一死をもって天子に報いようという気概であります。単なる義務の観念をもってしては、到底狂熱的な大勇猛心を奮い起こすことはできないというのです。浮田のように、これに反対して軍人にこの長所を捨てて外国の短所を取れというのは亡国の術を教えるもので、「事理観測の害悪の短所も是に到りて亦極まれり」と彼は痛論いたします。
さらに彼は、「不幸にして力尽きなば露国に屈するよりは全国土と全人民を挙げて太平洋底に没却せんことを希う」と論じまして、いわば玉砕主義さえも展開しております。主戦論と非戦論の双方が必要であると論じます浮田の見解につきましては、二つの論が「両立し得るのは開戦前の事である」と主張しまして、開戦後は非戦論の存在は許されないといい、挙国一致の必要を説くのです。
なお、同じ『太陽』の記者は、この問題につきましてさまざまな新聞の見解をも紹介しております。まず、『萬報』の記者は浮田に批判的な立場をとりました。他方、島田三郎の『毎日新聞』は、義務についての浮田、佐藤両人はその解釈が異なるだけで本質は同一であると論じました。『毎日』の記者は、浮田のいう義務とは人間の本分を意味すると主張します。一方、佐藤のいいます名誉にも低いものと高いものとがあります。一つは、自己中心的で他人の毀誉を標準とするもので功名に駆られたものです。これらに対しまして、道義にもとづいて行動し、他人の毀誉にかかわらない真の名誉とがあります。真の名誉は自己にとって本分、つまり義務ですが、他人から見れば名誉となるものである、と記者は論ずるのです。つまり、真の名誉と義務は同じであるというのです。『太陽』の記者はこの批評を当を得たものと評しておりますし、浮田自身もこの見解を認めていると思われます。浮田はのちに、「義務と名誉との異同に就いては島田三郎君の弁明ありたれば、余は之に蛇足を加うるの煩を避け、唯同君に向って爰に其厚意を感謝するを以て足れり」と述べているからです。他方、『国民』の記者は、佐藤将軍と同じように、戦争の是非の論議は非常の場合は許されないと論じております。浮田に反論しました当時の有名人には、まず国粋主義者井上哲次郎がおりますが、ここでは、もう一人の著名人加藤弘之のより穏健な批判を紹介いたします。加藤は東京帝国大学の総長になる人物です。はじめ天賦人権論の立場から立憲政治を主張しましたが、のち進化論に転じまして、民権論とキリスト教を 攻撃するようになります。彼は明治38年2月『太陽』に「佐藤対浮田論に就て」と題します小論文で自己の見解を展開しております。加藤はこれまで、この問題について公にされました議論のうち、井上哲次郎と古澤滋(民権運動家として出発しましたが、のち官途につきまして奈良、山口、石川などの県知事を務めました)の議論を大変厳密で行き届いた浮田への反論であると評価いたします。その上で加藤は、これら二人は浮田の説を誤解しているところがあり、実は両者と浮田のいうところは「そう違ったこともなく一致して仕舞うやう」だと論ずるのです。
議論の争点の一つとされていました、軍人は義務のために死すべきか、名誉のために死すべきかという問題につきましてはこう論じます。義務のために死ぬということが名誉となるし、名誉を全うするために死ねばそれが軍人の義務を尽くしたことになるという理由から両者は一つとなり、分けるには及ばないと主張しまして、毎日新聞の記者とほぼ同じ見解を示しております。
しかし、そのうえでなお加藤は、井上、古澤両人の論ずるところの方に「大体賛成してよかろうと思う」と浮田に対する批判的立場を明瞭にいたします。
ついで彼は軍人の自殺が絶対悪か絶対善かという問題をとりあげます。加藤は、浮田の議論は自殺を絶対悪とはいわないまでも悪いといい、「軍人たりとも捕虜になって構わない」という意見であるが、井上、古澤の方は「軍人が捕虜となると云うような場合に於ては寧ろ自殺すべきである」という意見だという風に議論を要約します。加藤は、浮田の説を理解するうえで興味深い体験を披露しております。加藤は以前、デニングというイギリス人教師とこの問題について語り合ったことを回想しています。加藤はデニングに対しまして、降伏するよりは自殺する方がいさぎよいといい、それが戦争で日本が強い「一つの大きな原因」であると論じました。これに対しまして、デニングはこう答えました。自殺してしまえば、君のため国のために尽くすことはできなくなる。捕虜となって他日を期すために、イギリス人は容易には自殺しない。日本人が簡単に自殺するのは強いようだけれども、無益に身命を棄てるのだから、これを勧める議論はよろしくない、というのです。この意見はとりもなおさず、浮田の見解にほかなりません。浮田がデニングの見解を知っていたかどうかはわかりませんが、浮田がヨ−ロッパ流の、少なくともイギリス流の立場から捕虜問題を論じていたことがわかります。
これに対しまして加藤は、日本とイギリスとの風俗習慣の相違という観点から自説を展開します。加藤も常陸丸、佐渡丸事件のように不意を突かれた場合に捕虜となることは大変恥というわけではないことを認めます。しかし彼は、ヨ−ロッパ人の風俗習慣と「日本人の習慣風俗とは其處に大分違いがある」といいまして、「日本人はさう云ふ防禦の手段全く無き時に於ても捕虜になることは実に恥かしいことであると云ふ習慣に育てられて居る。是れが所謂武士道である」というのです。「決して捕虜にならぬと云う気性が盛んであるから死を何とも思わぬで戦争(いくさ)することが出来るのである」と彼は主張しまして、「のちに命を棄てればよいという考えでは戦争に対して十分な力を盡すことが出来ないで遂に敗をとらねければならぬ」という鬼将軍と同じ見解を示します。
ただ、加藤は捕虜になったら絶対に死ぬべきだとまで論ずるわけではありません。「捕虜になってもどうか時機を見て自殺せよと云う程には私は勧めることは決してない」と彼はいっております。そこで、自殺は「絶対的に悪い絶対的に善いと云うやうに議論することは出来ない」とも論じております。にもかかわらず加藤は、成るべく自殺を止めると云う方の説は、前述の理由で大変悪い影響を及ぼすと考えるのです。ともかく、「恥を受けたる時に自分の生命を棄てるということは是れはモウキマリのやうになるのであるから、さう云う習慣のある人民では、それを此の後も矢張り保って行く方が宜しかろう」と彼は主張いたします。ロシアはあるいは寧ろ日本より優れたこともないではないだろうが、「この精神に至っては決して日本人に及ぶものはない」のでありまして、この精神こそ日本が連戦連勝するのに最も力のあるものだろうと彼は議論しまして、井上、古澤と基本的に同じ立場に立ったことになります。こうして加藤は義務と名誉の問題でも捕虜となることを絶対悪としない点でも、浮田の説にある程度まで理解を示しておりますし、捕虜になった後に自殺せよという極論にも与しておりません。にもかかわらず彼は、基本的には自決することの方をよしとし、その価値を認める点では、浮田の見解に対する有力な反対論であることに変わりないというべきでしょう。浮田は、このような反対論に対しまして種々反論したもようですが、ここにそれをいちいち辿ることはできません。彼のいわんとするところは、次のような彼自身の記述に示されております。
彼は、自らの見解は「一時の毀誉、局部の成敗に拘らず、永久の成功、全局の勝利を期すべしと言ふに在り。荀くも戦場に赴くもの誰か決死の勇なくて可ならんや。誰か弾丸雨注の間に立つ者に向って必ず生還を期せよと言ふものあらんや。誰か戦争を為す者に向って討死を非とするものあらんや。唯吾人が日本国民及び其軍隊に向って切望する所のものは成功を急ぐことなく、終局の勝利、永遠の名誉を期せよと云ふに在り。荀くも此自信と此希望あらんには、一時の失敗、局部の不成功は憂ふるに足らざるなり」というのです。ともかく、浮田はさまざまな反論や一般からの非難に対していささかもひるむところはなかったのであります。
浮田の説は西洋かぶれであると評することはた易いことであります。しかし、世界的視野に立った人道的な見解であることは議論の余地がありません。もし、浮田の説が日本で一般に行われていましたならば、太平洋戦争でのあの厖大な数の戦死者や非戦闘員の死者のかなりの部分の人々が無用の死を免れ得たことは間違いないところであります。この俘虜問題に関連しまして、浮田と当時将校でのちにロシア研究者となります石光真清との間のエピソ−ドについて紹介いたします。
日露戦争当時、多くの将兵を失いました遼陽の戦いが終ったころのことです。浮田の従弟でこの戦いに従軍して激闘をつぶさに体験していました石光は、戦場の第二軍司令部で『時事新報』を何気なく手に取りますと、従兄の浮田和民の遼陽の戦いに関する批評が目に入りました。その記事は、「遼陽の戦いは犠牲が多過ぎる。徒らに前途有為の将卒を喪ってはいないか」という書き出しではじまっていました。
「日本の軍人は責任観念を誤解してはいないか。官吏なら辞職、軍人なら戦死によって最高の責任を果されるように思っているのは誤りである。自分の職分、地位によって責任の限度があることを知るべきである。その限度において、全力を尽したなら、それでよいのである。・・・・無理に死ぬまで戦わせるようなことは、名誉でもなければ、国家として奨励すべきことではない」という趣旨であったと石光は述べております。石光は筆者が自分の従兄で学界でも論壇でも一流の人物だったので、「グッと胸に応え」「誰が死にたくって死んでるものか!馬鹿野郎!」といいまして、手にした新聞紙をひきちぎって踏みつけたい衝動にかられたと述懐しております。しかし彼はそれをぐっとこらえまして、筆者が従兄だということは伏せて、副官たちに読んでみろといって渡しました。新聞はさらに参謀部内に回覧され、賛否両論が表明されました。反対者のある者は「書物だけ読んで飯を食うとる大馬鹿者め、こんな奴は戦線で血を浴びんと目が覚めん」と机を叩く者もいたということです。
石光は反対者の一人で浮田に抗議の手紙を書き送りました。兵力も兵器も格段に優勢なロシア軍に対して、漸く勝ち進んでいるのは、「上は軍司令官から下は一兵卒に至るまで、死を怖れず最善を尽くしているからであります。戦場にあっては、死を慮り、死を怖れては、最善を尽すことが出来ません。貴殿の言われるように、職分、地位によって尽すべき責任の限度はありましょう。しかし砲煙弾雨のうちにあって、戦友の血を浴び死屍を越えて、露兵と生命の取り合いをしている最中に−−もう自分の責任上この程度でよかろう−−などと考える余裕などありませぬ。・・・・気の毒な多くの戦死者に対して、お前は権限以上の余計なことをやって死んだんだと批評されるのはいかなる御所存であるか。誰が死にたくて勝手に権限を侵して死んでいるのでありますか・・・・軽率な非人道的言動は慎んで戴きたい」という趣旨のものです。浮田は戦場から反対論を突きつけられたわけです。
これに対しまして浮田から短い返書が届きました。「戦場で戦っておられる皆様に読んで戴くために書いたものではありません。自分等として、このような呑気な議論をなさしめる余裕を与えられたのは、全く責任感の強い、誠忠なる軍人の賜であって、われわれ銃後の者は忘れてはおりませぬ。貴下は銃後の国民に、これだけの余裕のあることを知って満足して下さい」というのです。
石光は、これを読んで、怒ってよいのか笑ってよいのか迷いまして、朝日新聞の従軍記者上野岩太郎(靺羯)にそれを見せますと、彼はワッハッハと笑い出し、「君の負けだと・・・」というのでした。石光は苦笑して返書を引き裂き、手の中に丸めて屑篭にぶちこんだのでした。 この石光の対応には、浮田の言説を多少誤解したかと思われる面も見うけられます。また、浮田は石光の反論を大家らしく巧みに受け流しております。しかし、俘虜問題はともかく、このような少なくとも浮田のいわゆる「のん気な」意見に対し、戦場で奮戦している者が憤慨するのも無理からぬところかもしれません。しかしそれよりも意外の感を持ちますのは、この浮田の新聞記事に対し、司令部内に「賛成者が意外に多かった」という石光の証言です。このころはまだ、陸軍部内で浮田のような合理的な見解が理解されたばかりでなく、賛成を表明する自由があったといえるのでしょうか。
以上述べました俘虜留学論についての論争は、とりもなおさず、武士道についての論争ともいえます。浮田は武士道そのものにつきましてもかなり厳しい批判を下しておりますが、ここでは時間の関係で触れません。
ところで、明治の末年、世人の耳目を聳動させる事件が起きました。乃木希典将軍の殉死事件です。これは武士道にかかわる重大な出来事でした。明治天皇の崩御にあたりまして、その大葬の夜、大正元年9月13日に乃木将軍は夫人とともにあと追い自殺を遂げたのです。将軍は明治天皇を慕う純真な心と明治10年の西南の役で連隊長として軍旗を敵に奪われたこと、日露戦争中旅順攻撃に多くの兵を戦死させたことに対する責任から殉死を遂げたのです。この将軍の殉死は、武士道の鑑として大いに世に喧伝されました。 浮田はここでも「俘虜留学論」の場合と同じ合理主義の立場からこれに批判を加えるのです。彼はまず、将軍の「最後は実に意外且つ悲惨の極みである」と述べます。さらに、将軍は生きながらえて新しい天皇に仕え、命あるかぎり国家社会のために働くべきであったと論じまして、大いに物議をかもしました。木村毅の表現を借りますと、浮田は「天下の攻撃が一身に謂集したが、寸歩の退転もされなかった」のであります。
しかし浮田といえども、乃木将軍の行為には同情を示すことを惜しみませんでした。「大将平生の人格及び一家悉く国家に殉ぜられたる事は長く我が国民道徳の上に影響すべきこと更に疑を容れざる所である」とこれを高く評価しております。
さらに浮田は、将軍の心情についましては、「固より自己の行為を以って他人を律する積りなく、返す返すも報国尽忠の精神を忘却する勿れというのが大将の志であろう」と推測しまして、将軍の人格と動機が「日本的道徳の標準から見ても世界的道徳の見地から言っても極めて深甚なる尊敬と同情とに値するもので、其最後の行為が将軍の人格を傷くるものでなきは何人も異論なき所である」とも述べております。
浮田が乃木将軍の殉死を批判しますのは、まず
第一に、内外の世論が、これまで乃木将軍に批判的であった者まで、ほとんどすべて殉死に賛同している事実であります。特に日本においては「少数の意見若しくは独立の意見を寛恕し之に傾聴する雅量を欠く事」にありました。つまり、浮田の乃木将軍殉死批判の動機の一つが日露戦争の際の挙国一致の開戦論の危険に対する反対論と同じように、彼の自由主義に根差すものであることが知られるのであります。
第二に、浮田は「殉死を日本道徳の積極的な実現であると称賛する」ことに反対いたします。浮田は、将軍の精神には同情するけれども「其の行為の形式は悉く他人の規範となし難く」、特にその死に形は、「模倣す可からざるもの」であると論ずるのです。浮田は「国家の恩人を追慕するにも・・・感情を抑制すること」を求めたのです。
第三に、将軍の殉死を賞賛する理由の一つとしまして、「時弊に対する清涼剤」であるという見方があります。乃木将軍の死は、世の汚れた風潮に対しまして、いわば諌死であるというのでした。このような見方に対しましても浮田は同意いたしません。将軍の死は、「儒夫をも奮起せしむるに足るもの」でありますが、それによって選挙における政治家と選挙民の腐敗や官吏、実業家の「風儀を一変して高潔なる人民」とすることはできないと浮田はいうのです。
要するに「軍国の民として奮発興起せしむるけれども、立憲国民又は実業国民としての日本人に対し世人が今日思ふ程の効果はあるまい」と浮田は考えるのです。
そして、真に人民を感化するには、「大将の如き人格者は生息のあらん限り此世に存へて活動し自己老衰の後其の事業を継続す可き英才を教育されたのならば国家の為め此上なき善事であったろう」と彼は主張するのです。つまり、「俘虜留学論」の場合と同じように、自害するよりは生きて国家のために努めることを浮田は望んだのです。
乃木将軍の殉死への賞賛が日本中に湧き起っておりました当時、このような見解が非難攻撃の的となったことは想像に難くありません。ここでも彼はその非難に屈することはなかったのであります。 浮田が時流に抗して論じましたものに教育勅語限界論があります。教育勅語は御存知のように、明治23年(1890年)10月30日に発布されまして、その後天皇制国家の思想教育の支柱を成したものであります。それは仁義忠孝を根本にしまして、儒教的な王道論に立つものです。 戦後は当然のこととして、これは否定されましたが、今日でもこの教育勅語の精神を再認識して復活しようとする意見が折に触れて聞かれます。
この教育勅語につきまして浮田はこう評します。「教育勅語は人民が国家に発する観念を強固にするには十分なれども、凡ての人事に当りて、直ちに理想的人格を掲げ、以て徳行の儀表となしたるものにあらず。明らかに言へば国家の命令を以て善意の標準道徳の基本とはなし難きが故に、吾人が徳行を磨かん為め、憧憬の対象としては、政治的関係以外に儀表たる円満の人格を要するなり。彼の釈迦や基督や将た孔子や、正に之に当るべき人物として崇敬に値するものにあらずや」というのです。浮田はこう主張します。教育勅語の「精神は忠君愛国」でありまして、「愛国心を養はんのみならば」「優に足れり」というべきである。しかし、「広く一箇人として世に処せんことを計るには」「それ以外に要するところ無しと」しないというのです。つまり、「倫理の淵源を単に忠孝のみに発見」しようとするのは、今日の時勢に合わないばかりか、「人道の基礎薄弱たるを免れな」いのでありまして、それを補うには「更に孔子の人格を基礎として徳行を教うる必要」があると主張するのです。「天に対する敬畏、人に対する博愛」そして「天の心を仁」とする意識が必要となるのです。彼は釈迦やキリストをも模範的人間としたのです。要するに、教育勅語は国民意識を強固にするには十分だけれども、より広い人道のためには不十分であるというわけです。ここにも、浮田の世界的視野が現れております。そしてこのような彼の見解は、今日の教育勅語の意義を考える場合に少なくとも一顧に価するものを持っているといってよいでしょう。 浮田の反骨精神を表わす例としましては、さらに「南北朝正閏問題」があります。明治44年(1911年)、国定教科書『尋常小学校日本史』で南北朝が対等に扱われていることが議会でも問題となりました。当時の桂太郎内閣は、以後教科書では南朝を正統とし、北朝を無視することにしました。この時、浮田は北朝正統説を説いて譲りませんでした。南朝正統説は、南朝が皇位の象徴であります三種の神器を保持していたという事実をその根拠としています。これに対しまして浮田は、北朝は神器をこそ持ちませんが、60年間実際に政治を執行してきたという事実をもって北朝正統説の根拠といたしました。
浮田はまた建武の中興を実質は公家の専制であると捉えまして、「武家の政治でなければならぬ世の中」では公家の政治は悪いと断ずるのです。さらに、楠正成など忠義の士が南朝に多いという理由から南朝を正統化しようとします井上哲次郎の道徳説に対しまして、浮田は、政治は動機の良し悪しではなく、時代の情勢に合った者が成功を収めるのであるとしまして道徳説を退けます。のみならず、一方を正党として一方を姦党とすれば明瞭にはなるけれども、実際は「偏狭な党派心を奨励するのみで却って弊害がある」と論じました。 この国家による南朝正統説の公認は、学問の自由に対する圧迫事件として有名です。 この時、浮田がこの「問題を実は史学上の問題であるから之を学者の自由討究に任せて当局者の干渉を求むるは必要ない」と論じていることは注目に値します。この彼の主張は、今日の内外の教科書問題を考える際に参考とするに足るものといえるでしょう。ともかく、浮田のこのような現実的見解は、当時の反動派から国賊扱いされましたが、彼は自説を曲げることはなかったのであります。
以上、浮田和民の、時流に抗して敢然と自説を発表し、世論の反対に屈しなかった例をいくつかをお話しました。
しかしそれは、彼の思想の全体像をなすものではなく、ほぼ雑誌『太陽』で論陣を張りました時期までの彼の思想の一端を紹介したものにすぎません。
彼の思想の基調は、合理的なキリスト教を基礎としますヨ−ロッパ、特にイギリス流の思想であります。従いまして、本日お話しました浮田の思想の側面は、西欧的合理主義や自由主義、民主主義の立場からする日本の現状に対する彼の批判であったといってよいでしょう。しかし、彼は日本人の精神的支柱としてキリスト教ばかりでなく、儒教や佛教という日本人古来の宗教的価値をも認めたのでありまして、単なる西洋一辺倒ではありませんでした。
ともかく、彼が単に早稲田の誇りであるばかりでなく日本の近代思想と実際政治の発展に大きな足跡を残していることは疑う余地はありません。今後さらに広く知られるべき思想界の巨匠といえます。
本日の私のお話でそのような彼の思想の一面をいくらかでもお伝えできましたならば、私の望外とするところであります。
(了)
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