山と酒を愛した牧水と山頭火
   

  


   第8回東久留米雑学塾講演録

    講 師   竹村 銕郎氏 
     
(当会々員 NHK学園講師)
   
日 時  平成15年2月2日(日)

   会 場  東久留米市中央公民館

   
 



 
 ご紹介いただきました竹村でございます。皆様お寒いところお越しいただきましてありがとうございます。これから牧水と山頭火の話を大体1時間20分位させていただきましてから、今売れに売れている「声に出して読みたい日本語」、これの第2部が出まして、これに牧水の歌も載っておりますので、併せてご説明を20分から30分させていただこうと、こういう段取りでございます。

 NHKテレビで先週まで、佐々木先生が百人一首の解説講座をずっとしていました。先々週の講座で、西行法師と能仁法師の話をしていましたが、この時に、昔の旅の詩人は西行と能仁であり、現在の旅の詩人は牧水と山頭火であると言っていました。まことに我が意を得たりと思いました。と言いますのは、私が牧水と山頭火と一緒にして話をし始めた頃、或る友達から、「うまいことくっつけたね」と言われまして、私も最初は若干無理をしてくっつけたような気がしたものですから、ちょっと躊躇するところがありました。ところが、この間の佐々木先生のお話で、これは太鼓判を押されたということだと大変に嬉しく思った次第です。
 私が牧水と山頭火を一緒に考えるようになりましたのはまことに単純でございまして、この2人の最も有名な詩歌が山に関するものであったからでございます。つまり、牧水のは“幾山河越えさりゆかば寂しさの 果てなん国ぞ今日も旅行く”であり、山頭火のは“分け入っても分け入っても青い山”です。

愛される詩人、若山牧水と種田山頭火
 現在わが国で最も愛されている歌人は若山牧水であり、俳人は種田山頭火です。二人がなぜ愛され親しまれているのか、以下その作品や人となりなど、共通する事柄についてお話しします。

   有名な山の詩歌
 牧水の最も親しまれている歌は“幾山河越えさりゆかば寂しさの 果てなん国ぞ今日も旅行く”であり、山頭火のは“分け入っても分け入っても青い山”です。
 牧水がこの歌を作ったのは22歳、早稲田の学生で夏休みに宮崎県へ帰省の途中、岡山県から広島県へ越える二本松峠の熊谷茶屋に泊まり、詠んだものです。歩き続ければ、寂しさが果てる国があるだろうから、どこまでも進もうという、青年らしい情緒と感傷に包まれた歌です。
 カ−ル・ブッセの詩に、“山のあなたの空遠く、幸い住むと人の言う・・・”に似たイメ−ジの詩があり、牧水もこの詩に触発されたのかも知れません。しかし、この詩はすぐ“ああ我人と尋(と)め行きて、涙さしぐみ帰りきぬ”と帰ってしまうのであり、牧水のあこがれの国を求めて、どこまでも行こうとするロマンの心はすばらしいと思います。
 一方、山頭火の最も有名な俳句“分け入っても分け入っても青い山”は、44歳のとき熊本県から宮崎県へ抜ける九州山脈の中でできたこの句は、それだけに、しみじみとした人生の哀愁を思わせる名句です。
 かって中道にして倒れた小渕元総理が、山積する政治問題を解決するとき、この句を引用していたことが思い出されます。

〇山と酒を愛した二人
 若山牧水、種田山頭火、ともに雅号に山を織り込んでいます。牧水の場合、
若いときは若山雨山といっていましたが、さすがに山が重なりすぎると言うこともあってか、母親マキさんの音を採って牧水にしました。
 また、二人は酒をこよなく愛し、牧水は小諸滞在中の記録によると、朝3合、昼4合、夜6合を呑んだとあります。山頭火の場合はもっと呑みましたが、幸か不幸かお金がないため自然に休肝日が続き、牧水より16年も長く生きました。

○一番多い歌碑と句碑

 牧水の歌碑は現在300基あります。昭和50年(1975年)で線を引いてみますと、それ以前は74基です。つまり、50年以降の建碑が226基と圧倒的に多く、人気の高まりを示しています。ちなみに、石川啄木の歌碑は100基などといわれています。 山頭火の場合はもっと極端で、昭和50年以前はわずか17基でしたが、現在は500基以上と推定されています。

   
純粋で一途な人柄
 二人の純粋無雑な人柄は、優れた詩歌とともに人々に感動を与えています。
牧水は27歳のとき、肺結核に病む石川啄木を看病し、友人としてただ一人、その最後を看取りました。当時肺結核は、肺病といって伝染が恐れられており、しかも翌月には太田喜志子と結婚することになっていたのもかかわらず、温かい友情で友を送りました。
  “はつ夏の曇りの底に桜咲きおり 衰え果てて君死ににけり”
  “君が娘(こ)は庭のかたえの八重桜 散りしを拾いうつつともなし”
 また後年、「みなかみ紀行」の折、沼田町の宿で歌会があり、翌日参加者の一人、生方吉次青年は宿の下駄で牧水を町外れまで送るつもりが、5里先の老神温泉までついていってしまったなど、牧水の優しくさわやかな人柄に魅せられてのことでした。 
 一方山頭火は、長野県伊那の放浪俳人、井上井月の墓に詣でようとし、昭和9年の4月、木曾から伊那へ抜ける雪深い清内路峠を越え肺炎になって、飯田の病院に入院し墓参はなりませんでした。しかし、これに懲りずに思い続け、それから5年後の昭和14年、つまり死の1年前、ついに念願の墓参を果たした、誠に純粋一途な人柄です。

〇二人の相違点
 その最大のものは家庭の有無です。 牧水は、歌人で賢夫人の喜志子が守る家庭を安心して離れ、旅を重ねました。そして、旅先から絶えず手紙を出し、早く帰りたいとまるで甘えん坊のように、繰り返し書きました。喜志子夫人も、これに歌で応えました。
  “いち早く食べんと言いし田楽の 木の芽も萌えぬとく帰りませ”
  “汝(な)が夫(つま)は家には置くな旅にあれば 命光ると人の言えども ”
牧水は大変な愛酒家でしたが、晩年は肝臓を悪くし、医者から禁酒を命じられていました。  “酒やめてかわりにないか楽しめと いう医者がつらに鼻あぐらかけり”
  “妻が目を盗みて飲める酒なれば あわて飲みむせ鼻ゆこぼしつ”禁酒令の医者に対する揶揄や、盗み酒の情景を詠ったほほえましい歌です。
 これに対し、山頭火はサキノと結婚、一人息子の健をもうけましたが、10年後に離婚し、以後まったく一人で過しました。山頭火の俳句全体が、何か哀愁を帯びているように感じるのは、家庭のない寂しさに由来するからと思います。

種田山頭火の人生
 この30年間で種田山頭火ほど有名になった詩人はいません。私が持っている昭和40年(1965年)出版の平凡社の大百科事典に山頭火は載っていません。百科事典は少し有名に人物なら必ず載るわけで、当時山頭火がまったく無名たったことがわかります。それが現在版の広辞苑には山頭火は掲載されています。言語事典である広辞苑に人名が載るのは、とても有名であるからで、短期間でこれほど評価が変化した人は他にないと思います。

〇出生と青年時代
 種田山頭火は明治15年(1882年)山口県防府市(旧西佐波令村)で、父竹二郎・母フサの長男として生まれ、正一と命名されました。
 当時種田家は大種田といわれ、防府駅まで800メ−トルを他人の土地を踏まずに行けた程の資産家で、山頭火は「正さま、正さま」と使用人に言われ、大事に育てられました。 しかし10歳のとき、山頭火に最初の不幸が訪れました。それは母フサの自殺です。夫の竹次郎は村の助役をし、政治好きで料亭で談合などしているうちに芸者と仲良くなり、遠出するようになりました。ちょうどその日も竹次郎が別府温泉へ芸者と行ったのですが、前途を悲観してフサは井戸へ身を投げました。 庭で遊んでいた山頭火は井戸のほうで大人たちの声がするので、行ってみると「猫が落ちたんだ。子供はあっちへ行け」と言われましたが、大人たちの足の間からフサの水死体を見てしまいました。 これは山頭火にとって大変なショックで、後年こう述懐しています。「ああ母の追憶、私が自叙伝を書くならば、その冒頭の語句として『私一家の不幸は母の自殺から始まる・・・』と書かねばならない」 以後山頭火は祖母ツルに育てられ、20歳で東京専門学校(早稲田大学の前身)に入校しました。しかし、明治23年2月、23歳のとき神経衰弱のため退学しました。同じ年の4月、若山牧水が入学しましたが、この2ヶ月の差で二人は永遠に会うことはなかったのです。

〇結婚と種田家の破産
 父竹次郎は家政に失敗し、再起を期して明治39年隣村の酒造場を買収、一家は移住して酒造りを始めました。帰郷した山頭火はその手伝いをしていましたが、27歳のとき佐藤光之輔の長女サキノと結婚、翌年長男健(たけし)が生まれました。結婚と子供の誕生、人生で最も嬉しく充実した時期である筈が山頭火はその逆でした。 後年山頭火は記しています。「最初の不幸は母の自殺で、第二の不幸は酒癖、第三の不幸は結婚と父になったこと」。サキノも述懐しています。「結婚して家にいたのは10日くらいで後は旅へ出ました」。またその頃から、山頭火は無軌道に酒を飲んで泥酔を繰り返すようになりました。
 29歳で郷土の文芸誌「青年」に参加して、山頭火の名で翻訳、評論等を発表、また田螺公の号で定型俳句を盛んに発表しました。31歳のとき萩原井泉水(はぎわらせいせんすい)主宰の自由律の俳誌「層雲」に山頭火名で初出句し、34歳のとき認められて「層雲」の選者の一人になりました。
 しかし、同年種田家は2年続きの酒造りに失敗して破産し、父竹次郎は家出し、山頭火は妻子を連れて熊本へ行き、古書店「雅楽多」を開きました。
   “燕飛び交う春しみじみと家出かな” ただ、古本の商いだけでは生活ができず、後で額縁を扱うようになって、やっと生活が安定しました。山頭火37歳のとき、養子に行っていた弟・二郎は徳山市の山中で縊死しました。養家は種田家に多大の金を貸し、それが焦げ付いたため養家を追われた結果でした。同年母親代わりに山頭火たちを育んできた祖母ツルが91歳で亡くなりました。山頭火は書いています。「私の祖母はずいぶん長生きしたが、長生きしたがために、没落転々の憂き目を見た。祖母は『業やれ業やれ』とつぶやいていた」。

〇上京と離婚
 その年、山頭火は単身上京し、東京市の臨時職員になりました。翌年妻サキノの兄より離婚状に判を押すよう手紙が来ましたため、当然サキノも承知のことと思い、山頭火は判を押しました。しかし、これはサキノを思う兄の独断でしたが、法律上はこれで離婚となったわけです。
 上京後山頭火は真面目に仕事をし、40歳のとき東京市の正式職員で一橋図書館勤務となりました。この年、父竹次郎が波乱の人生の幕を閉じました。山頭火は翌年神経衰弱になり図書館をやめ、額縁の行商などをしていましたが、大正12年の関東大震災のため、熊本に帰りサキノのところで居候をすることになりました。

〇泥酔と出家
 そして大正13年の年末、一生を画する大事件が起きました。泥酔した山頭火は、熊本公会堂前の市街電車の軌道に仁王立ちになって、電車を止めようとしました。運転手は驚いて急ブレ−キをかけて急停車したため、乗客は将棋倒しになり、怪我人も出ました。山頭火を囲んだ乗客たちは激昂して激しく罵倒し始めました。そのとき居合わせた木庭という熊本日日新聞の記者が、騒ぎを収めるため、機転を利かせて山頭火の腕を取り、「貴様こっちへこい!」と荒々しく引き立てました。そして、顔見知りの住職・望月義庵のいる報恩寺へ行き、山頭火を託しました。
 山頭火は大悟一番、読経、座禅、作務に励み、翌14年2月出家得度し、郊外の味取観音堂の堂守になり、有名な句を作りました。
   “松はみな枝垂れて南無観世音”
   “生死(しょうじ)の中の雪ふりしきる”
 この寺の檀家は51軒で、その布施による収入は僅かであり、生活費の大部分は托鉢にとって賄われました。
 大正15年6月、山頭火44歳のとき、九州山脈を越えて宮崎方面へ行乞の旅に出ました。そして、緑深い山中でできたのが有名な次の句です。
   “分け入っても分け入っても青い山”
 昭和3年、山頭火は四国88ヶ所の巡礼行乞をし、小豆島へ渡り、尾崎放哉の墓へお参りしました。

〇尾崎放哉(ほうさい)
 放哉は明治18年に鳥取県に生まれ(山頭火より3歳年下)、鳥取一中、一高、東大法学部を卒業した秀才で、一高在学中俳句を始め、1年先輩の自由律の俳人・萩原井泉水ともつながりを持ちました。
 その頃日本女子大に入学した従妹の沢芳枝に恋をし、結婚を申し入れましたが、芳枝の兄が医学上の見地から反対したため適わず、以後次第に酒におぼれるようになりました。芳枝を思っての俳号「芳哉(ほうさい)」を失恋後やめて、破れかぶれの「放哉」にしたのも、ショックの大きさを物語っています。
 大学卒業後、東洋生命に就職し、大阪支社次長となったが、支社長が教養のない叩きあげの人だったので、ウマが合わず、酒と俳句にのめりこむようになり、入社9年で会社を辞めました。大正11年友人の世話で、朝鮮火災海上保険の支配人になりますが、ここでも酒で失敗して会社を追われ、満州を放浪して大連から船に乗り、船中で自殺をはかりましたが果たせず、妻と別れ西田天香の一燈園にはいり、その後寺男などをして各地を転々しました。
 大正14年、小豆島の南郷庵(みなんごあん)に安住を得ましたが、翌年肋膜炎のため41歳で亡くなりました。
   “障子しめきって淋しさをみたす”
   “一日もの言わず蝶の影さす”
   “咳をしても一人”
 山頭火は墓参の後、「放哉居士の作の和して」の但し書きをつけて、句を詠みました。   “鴉(からす)鳴いてわたしも一人”

〇伊那と井上井月
 その後、山頭火は行乞に明け暮れ、昭和6年49歳で福岡県を行脚のとき、「自嘲」という但し書きをつけた有名な句を作りました。
   “うしろすがたのしぐれてゆくか”
 昭和7年、句友の世話で山口県の小郡町に小さな家を確保することができ、「其中庵(ごちゅうあん)」と命名しました。小郡は山陽新幹線と山口線の分岐の町で、現在は山口市になっている湯田温泉が12キロ先にあり、山頭火はよく湯浴みに通いました。ここで山頭火は落ち着くことができ、句友達も多く訪れ、師の荻原井泉水を招いて句会も行いました。井泉水は近くの農学校で講演をし、盛んに山頭火を持ち上げましたので、それまで冷たかった近所の人たちの見る目も変わりました。
 其中庵で落ち着いた山頭火は昭和9年4月、長野県伊那市にある井上井月の墓へお参りすることにし、標高1,200メ−トルの清内路峠を越えて、木曾から伊那の飯田市へ行きました。4月中旬の清内路峠は雪が深く、山頭火は肺炎になって飯田市の川島医院へ緊急入院し、墓参はなりませんでした。
 井上井月はもと長岡藩士であり、諸説ありますが、武士を棄てて安政5年(1858年)37歳のとき伊那へ来ました。伊那は古来、“木曾へ木曾へと付き出す米は伊那や高遠の余り米”と伊那節にも詠われているように、物産豊富な地域で、学問への関心が高く、人情の厚いことは他県から来た人が驚くほどです。井月は伊那の人たちに学問や俳諧を教え短冊を書くなどして、地域になじみ、とりあえず生活も安定しました。しかし、短冊も一巡すれば、そんなに売れるものではなく、また、武士の悲しさ、猫の手も借りたい農繁期にやってきて上がり込み、無神経に長話をするなどして次第に嫌われ、ついに皆から見放され、乞食井月と言われるようになりました。
 明治19年65歳の晩秋、山田で倒れ後援者の伊那市美篶(みすず)の塩原梅関宅へ運ばれました。そして、翌年春まで生き、一杯の焼酎を飲んで安らかに往生します。
   “落ち葉の座を定めるや窪たまり”
   “降るとまで人には見せて花曇り”
   “何処やらに鶴(たず)の声聞く霞(かすみ)かな”
などが有名ですが、墓石には“降るとまで”の句が刻まれており、また、辞世の句は、“何処やらに”です。私も平成10年6月、お参りしましたが、墓前には何本も酒瓶が供えられていました。
 山頭火は昭和11年55歳のとき、井泉水主宰の「層雲」中央大会(東京)に出席していましたから、長野県の小諸へ行き、懐古園に2年前にできた若山牧水の歌碑と対面しました。
   “かたはらに秋草の花かたるらくほろびしものはなつかしきかな”
 山頭火はそれから北陸路を歩き、福井県の永平寺に参篭しました。そのときの句。
   “てふてふひらひらいらかをこえた”

〇其中庵、風来居そして一草庵へ 
 昭和13年、住んでいた小郡の其中庵は崩れ、修復ができなくなったので、湯田温泉(現山口市)の4畳一間の小屋を借りて移り住むことになり、風来居と名付けました。これは風のごとくやってきたという意味と言われています。句友達がリヤカ−を借り、小郡から湯田まで12キロの道を厭わず荷物を運んでくれました。
 山頭火はよく湯田温泉の千人風呂で汗を流し、句作しましたが、異色の句もあります。
   “ちんぼこもおそそも湧いてあふれる湯”
 湯田温泉の一角にその句碑があり、ユ−モラスでしかも人間は皆はだかだといった禅味あふれる句として、ひそかに人口に膾炙(かいしゃ)しているそうです。
 昭和14年の5月初め58歳の山頭火は、5年前果たせなかった伊那の井上井月の墓参のため、旅立ちました。豊橋から鳳来寺山へ参り飯田を経て、伊那の句友で伊那高女教諭、前田若水の家に厄介になりました。若水の案内で井月
の墓前に立った山頭火は句を詠みました。
   “お墓撫でさすりつつ、はるばるまいりました”
   “駒ヶ根をまえにいつもひとりでしたね”
   “お墓したしくお酒をそそぐ”
 私も平成10年6月、井月の墓へ参りましたが、墓前には酒瓶がいくつも並んでいました。
 さらに、山頭火は若水の案内で高遠城址公園に行き、有名な小彼岸桜の散りよくさまを詠みました。
   “太鼓叩いてさくら散るばかり”
   “なるほど信濃の月が出ている”
 山頭火はかねて、瀬戸内海の南に見える四国の松山方面を見て、移り住みたいと思っていました。句友の大山澄太が逓信局の仕事で松山へ行き、山頭火のことを話すと、特に松山高商教授の高橋一洵が興味を示し、移転の面倒をみることになりました。そして、昭和14年12月、松山市の御幸寺境内の古屋を借り、一草庵と名付けて住むことになりました。山頭火は高橋一洵など句友としばしば句会を催し、また、松山が生んだ有名俳人、正岡子規や河東碧梧桐の句碑やお墓を巡回しました。
 昭和15年10月10日夜、一草庵で句会が行われましたが、山頭火はいびきをかいて寝ていました。句友たちは山頭火がまた酔って寝ていると思い、起こすのも気の毒だからと自分たちだけで句会をしました。会が終わっても山頭火は寝たままでしたので、皆そのまま帰りましたが、高橋一洵がどうも気になると、早暁行ってみますと、山頭火はすでに大往生を遂げていました。59歳の波乱の人生でした。

〇俳句鑑賞
 山頭火は記しています。「優れた俳句は、其の作者の境涯を知らないでは十分に味わえないと思う。前書きなしの句というものはないともいえる。其の前書きとは作者の生活である。生活という前書きのない俳句はありえない」
 私もまったくそのとおりだと思います。17文字前後という世界最短詩の俳句では、作者の人生、人柄などが分からなければ、本当の意味を汲み取れないと思います。 2〜3年前の3月末、あるテレビを見ていたら、アナウンサ−が「皆さま長い間お世話になりました。今日でお別れです。“さまざまこと思い出す桜かな”の心境です」と言ったものですから、なんて下手な俳句を言うものだなと思っていましたら、すぐテロップが“さまざまなこと思い出す桜かな・・芭蕉”と流れましたので、なんて素晴らしい俳句だろうと思ったものです。
 以下、主な10句を記します。各句末尾の数字は平成2年「三河・知多山頭火の会」が全国調査をし、総句碑数164基(現在は500基以上)が判明しましたが、その中で同じ句が何基に使われているかを示す数字です。
   “分け入っても分け入っても青い山”   E
   “うしろすがたのしぐれてゆくか”    A

   “松はみな枝垂れて南無観世音”     B

   “生死(しょうじ)の中の雪ふりしきる” C

   “捨てきれない荷物のおもさまえうしろ”
   “山しずかなれば笠ぬでゆく”      A
   “酔うてこおろぎと寝ていたよ”
   “うれしいこともかなしいことも草しげる”
   “もりもりもりあがる雲へあゆむ”
もりあがる雲に向かって歩き、その中へ消えてゆこうとする、安心諦観の辞
世の句です

若山牧水の人生
 牧水の短歌は、平易で純情、人の心を和ませ、懐かしい気持ちにさせる不思議な魅力にあふれています。もちろん、言葉とか構成は練りに練りますが、それをやさしく表現しているといえましょう。現代にも十分通用する、いやむしろ今の短歌が牧水の短歌に接近しているともいえましょう。例えば、俵万智の、“「この味がいいね」と君が言ったから、七月六日はサラダ記念日”、“思いきり愛されたいと駆けていく 六月サンダルあじさいの花”、あるいは、東洋大学選の学生百人一首にある女子高生の、“笑ってわらって家族のきずな強めあう いもうと二人の震災死から”、など牧水の歌の通じる思いがします。

〇出生と若山家の出自
 牧水は明治18年宮崎県東臼杵郡東郷町(旧坪谷村)で、医者の父立蔵(りゅうぞう)、母マキの長男として生まれました。繁(しげる)と命名されました。東郷町は延岡市から車で1時間近くかかる、九州山脈の山懐にある山里です。そんな山奥にあるのなら、若山家は先祖代々の旧家と思いきや、祖母健海のときにこの地に住むようになった新宅です。健海は所沢の出身で江戸の生薬問屋に奉公していましたが、長崎の平戸にオランダのシ−ボルトという有名な医師がいると聞かされ、医学の教えを乞いたく、実家には身延山へお参りに行くと偽り、長崎へ行きました。シ−ボルトはすでに帰国していたが、弟子の緒方洪庵に医学を学びました。江戸へ帰れば、当然超エリ−ト医師として活躍できるのに、なぜ宮崎の山の中へ籠ってしまったか不思議です。恋人がいたわけでもありません。
 しかし、後年私は司馬遼太郎さんの、街道を行くシリ−ズの「南伊予、西土佐の道」を読んで何か分かるような気がしました。「徳川封建制の不思議さは、山間僻地まで学問の刺激が及んでいたことで、19世紀までアジア各地では見られないことであった。例えばこの印野町は、江戸末期の代表的な洋学者二宮敬作が町医として暮らしていたのも、不思議さの一つにしてもよいかもしれない」健海は一説では、長崎で修行を終え博多から江戸へ帰るため、左は博多、右は熊本へという交通の分岐点・鳥栖(とす)まで来て、熊本方面も見ていこうとして、宮崎の山奥まで来てしまったといいます。さらに、健海が発見されたのは、西南戦争のおかげです。明治10年挙兵した西郷隆盛軍は、熊本の田原坂の戦いに敗退し、宮崎方面から東上しようとしましたが、官軍の激しい攻撃に敗れ、延岡市付近で解散し、隆盛本隊は九州山脈を南に逃れ、9月故郷・鹿児島で滅びます。この西郷軍を追って官軍が東郷町方面へも進出し、民家に分宿しました。健海の家に泊まった川越出身の兵隊が、主(あるじ)は関東弁だと思って出身を聞き、川越の隣りの所沢ということが分かりました。牧水が3歳のとき健海は亡くなりましたが、白い長いひげがあったことを記憶しているそうです。父立蔵も医者でしたが、健海が残した多くの財産を、相場や事業の失敗で擦り減らしました。


〇青年時代
 牧水は坪谷小学校を卒業後延岡中学校へ入学し、明治37年卒業、早稲田大学文学科へ入学しました。同級生に同じ九州出身の北原白秋がおり、下宿も一緒するなど親交が続きました。明治39年6月末帰省の途中神戸に立ち寄り、中学時代の友人のため、その恋愛の悩みについて、相手方の母親に弁護したのですが、そこで園田小枝子(さえこ)と知り合いました。小枝子は牧水より1つ年上で2児の母でした。翌6月小枝子は家庭を離れ単身上京し、従妹の弟の下宿へ転がり込み、牧水にも連絡しました。
 純情な牧水は、2児の母で1歳年上の成熟した小夜子に惹かれ始めました。その6月下旬、牧水は帰省の途中、中国路を歩いて、あの有名な歌を詠みました。

 “幾山河越えさり行かば寂しさの 果てなん国ぞ今日も旅行く”
 “けふもまたこころの鐘をうち鳴らし うち鳴らしつつあくがれてゆく”
 
 “幾山河・・・”は前に述べたようにカ−ル・ブッセの詩を連想させますし、“けふもまた・・・”は明治38年に出された窪田空穂(くぼたうつぼ)の歌集にある歌を連想させます。
 “鐘鳴らし信濃の国を行き行かば ありしながら母見るらむか”そして、これら名歌ができたのは、青春多感なときに小枝子という女性を知りえたというひそかな充実感が根底にあると思います。牧水は秋に入り小枝子と急速に親しくなり、12月末二人は房州南端の白浜町根本海岸へ行き、越年しました。
 “ああ接吻(くちずけ)海そのままに日は行かず 鳥翔(と)ひながら死(う)せはてよいま”など恋に酔いしれた歌を多く残しています。翌明治41年、大学を卒業した牧水は恋愛問題に苦しみ、生活の道も立たず、上信地方に遊んだ後、帰省しました。そのうらぶれた姿に両親は失望し、故郷で職につくよう要請しました。しかし、牧水は苦悩しながらも文学で身を立てることを決意し、故郷を離れ上京しました。

〇喜志子との結婚
 牧水が27歳の明治44年の初め、小夜子はついに神戸に帰り、5年越しの二人の恋は終わりを告げました。それにしても二人の関係は奇妙に思えます。牧水の離反を恐れた小夜子は、有夫で2児の母であることを隠し通したのですが、牧水も何の疑惑を持たなかったのか、ちょっと不思議に思います。その年の夏、歌友太田水穂の家で、文学勉強のため上京した太田喜志子に会った牧水は、水穂の奨めもあり、喜志子との結婚を考えるようになりました。翌明治45年春、牧水は喜志子の故郷・長野県松本在の広丘村へ行き、結婚を申し込みました。当時牧水はすでに新進歌人として長野でも牧水熱は高まりつつありましたが、同時に呑んだくれの放浪歌人、恋の前歴者でも有名でした。喜志子は、それらのことを全部告白する牧水の澄んだ瞳を見、また、純真素朴な人柄に魅せられ、結婚を決意しました。東京に帰る牧水を見送って作った歌は、この人についていこうという喜志子の静かな決意が秘められていると思います。

 “かなしやな信濃の春はうす青し 君は桜か東京(みやこ)へ帰る”
 結婚後二人は新宿2丁目の、かって喜志子が借りていた酒屋の二階で、新婚生活をスタ−トしました。新宿2丁目は遊郭の町で、喜志子は遊女の着物を縫って生活費を稼ぎ、牧水を支えました。

〇旅の歌人
 牧水は、西行(平安末〜鎌倉初期)に継ぐ旅の歌人といわれています。西行は近畿一円はもちろん、四国、関東、東北など広く諸国を歩いて歌を作り、「山家集」などに2千の歌を残しています。
 “ねがはくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月(もちづき)の頃” この歌などを引用して、牧水は述べています。「西行法師は最も純粋な日本の詩人であった。これらの歌を読んでいると、清い、寂しい、静かな自然に帰っていって、いまにも死の前にたどり着こうとする作者の心持ちが、実に無限に我らの胸に通うてくる」牧水の旅は全国に及んでいますが、とくに多くの歌友がいる長野県の小諸地方には8回訪れています。ある歌友の家では、いつも酒5升を用意して歓待しました。揮毫を続ける牧水はすずりの水がなくなると、家人に遠慮して水ももらわず、酒を入れて墨を擦ったそうです。テレビのアナウンサ−が字の色を聞いたら、とても艶のある色だったと笑い話が放映されていました。
 また、群馬県の吾妻渓谷地方は、故郷の坪谷村と環境が酷似しているのと、
学生時代親しかった友人がいましたので、ここへも8回訪れました。
   “忘却のかげかさびしき一人の 人あり旅を流れ渡れる”
 祖父健海の出身地・所沢の奥という親近感もあってか、秩父地方にも4回旅
をしています。
   “秩父町出はづれくれば機織りの 歌声つづく古りしや家並みに”
   “石越ゆる水のまろみを眺めつつ こころかなしも秋の渓間に”
 大正10年36歳のとき、初めて上高地に遊び、その素晴らしい自然に感動しました。   “いはけなく涙ぞくだるあめつちの かかる眺めにめぐりあいつつ” その後、焼岳へ登り、阿房峠を越えて難渋の末、高山市に着きました。旅館に泊まろうとしたら、番頭がやつれた風体を怪しんで、宿泊を拒否しました。粘る牧水に女将が根負けして、物置のような部屋へ案内しました。風呂から上って酒を飲み始め、連日の疲れにぼぉ−とした気持ちになっているときに電話が鳴り、それでハッと友達がいるのに気が付きました。早稲田の同級生で詩歌仲間の福田友咲で、電話をすると夕食を中断してすっ飛んできて、料亭で大宴会となり、1泊の予定が2泊になり、歓を尽くしました。

〇みなかみ紀行
 牧水は36歳の大正11年秋、利根川の水源を訪ねる24日にわたる長い旅をしました。その紀行文を大正13年「みなかみ紀行」というタイトルで出版しました。 長野県の小諸へ行き、そこから草津温泉、沢渡温泉、四万温泉など吾妻渓谷沿いに歩き、中之条から渋川を経て沼田まで列車を利用し、沼田から土地の青年2人と9里(36キロ)の道を歩き、法師温泉へ行きました。

法師温泉での邂逅(かいごう)

 法師温泉で2人と酒を飲んでいると、そこへ1升びんを下げた、見知らぬ若者がまた2人入ってきました。1人はK君といふ人で、今日我らの通ってきた塩原多助の生まれたといふ村の人であった。1人は沼田の人で、アメリカに5年行っていたといふ画家であった。画家を訪ねて沼田へ行っていたK君は、そこの本屋で私が今日この法師へ登ったということを聞き、画家を誘って、後を追ってきたのだそうだ。そして懐中から私の最近に著した歌集『くろ土』を取り出してその口絵の肖像と私を見比べながら、“やっぱり本物にちがいありませんねえ”といって、驚くほど大きな声で笑った」(みなかみ紀行より、以下同じ)。K君とは生方吉次のことであり、画家とは親戚の生方誠(せい)のことです。誠は太平洋戦争後、国家公安委員制度ができた時に初代の委員になった人です。また、たつえ夫人は歌人としても有名で、沼田公園に歌碑があります。

 “冬山のやせたるひだにおきわたす 根雪の光きびしこの国”


鼓女(ごぜ)との出会い  

 翌日牧水はもう1日遊んでゆくという吉次たちを別れ、沼田へ向け出発しました。「吹路(ふくろ)の急坂にかかった時であった。12〜3から30歳までの間の若い女たちおよそ30人が、3人5人と組を作って登ってくるのに出会った。真っ先の1人だけが目明きで、あとは皆盲目である。聞けばこれが有名な越後の鼓女(ごぜ)であるそうだ。収穫前のちょっとした農閑期を狙って稼ぎに出てきて、雪の来る少し前にこうして帰ってゆくのだといふ。・・・這う様にして登っている彼らの姿は、1町2町の間をおいて落葉した山の日向に続いて見えた」人と生まれ目が見えない不幸な人たちが、苦労して歩く姿がよく描かれています。平成13年、101歳の小林ハルさんという鼓女で、そのご詠歌が無形文化財になっている女性がテレビに出演していました。今度生まれるときは虫でもよいから、目が見えたら嬉しいと言われており、こころを打たれました。


老神温泉での別れ
 翌々日の夜、沼田の宿屋で歌会が開かれ、法師へいった吉次青年も参加しました。翌日、会の人たちが町外れまで見送ってくれましたg、吉次は別れかねてさらに2里ほど歩き、ついに5里先の老神温泉までついて行きました。宿屋の下駄を履き、帽子もかぶらない姿でついていったのですから、いかに牧水の素直であたたかい人柄に、魅せられたか分かろうというものです。
 夜になって老神温泉に着いた2人は、降り始めた雨音を聞きながら酒を酌み交わしました。翌朝も厳しい雨に、やむなく滞在と決めて徳利を取り寄せ、いい気持ちになってきたところで、急に外が明るくなってきました。 「“おやおや晴れますよ”そういう言うとK君は飛び出して番傘を買ってきた。私もそれに頼んで大きな油紙を買った。そして尻から下を丸出しに、尻から上首までをば僅かに両手の出るようにして、くるくると油紙と紐とで包んでしまった。これで帽子をかぶれば、洋傘はささずとも間に合う用意をして、宿を起ちいでた。そして程なく、雨風のまだまったく収まらぬ道ばたにたってK君と別れた。彼はこれから沼田へ、さらに自分の村下新田まで帰ってゆくのである」牧水は吉次青年の番傘に2首の歌を書きました。
 “かみつけのとねの郡(こおり)の老神の 時雨ふる朝を別れゆくなり”
 “相別れわれは東に君は西に わかれてのちも飲まぬとぞおもふ”
 「みなかみ紀行」には上記のように、番傘に歌を書いたことは一切記されていません。したがってこの番傘が無ければ、2首の歌は永遠に日の目を見ることはなかったわけです。貴重な番傘です。そしてこの番傘は、吉次から親戚の画家誠(せい)に渡され、現在沼田の生方記念館に保存されています。


水源の喜び
 吉次と別れた牧水は、尾瀬沼から流れてくる片品川をさかのぼり、吹割の滝を見学し、やがて路を右にとり、丸沼へと進みました。丸沼で鱒の養殖をしている番小屋に泊めてもらい、老番人の案内でその先にある沼を見学することにしました。「長い坂を登りはてるとまた1つ大きな青い沼があった。菅沼といった。それを過ぎてやや平らかな林の中を通っていると、端なく私は路ばたに茂るなにやらの青い草むらを吹き上げてむくむくと湧き出てくる水を見た。老番人に訊ねると、これが菅沼、丸沼、大尻沼の源となる水だという。それを聞くと私は思わず躍り上がった。それらの水源といえば、とりもなおさず片品川、利根川の一つの水源でもあらねばならぬのだ。ばしゃばしゃと私はその中へ踏み込んでいった。そして切れるように冷たいその水を椈み返し椈み返し幾度となく掌(てのひら)に椈んで、手を洗い顔を洗い、頭を洗い、やがて腹のふくるるまでにむさぼり飲んだ」これが「みなかみ紀行」のクライマックスであり、数年前NHKテレビで放映された牧水の番組も、この情景で結んでおりました。牧水はそれから金精峠を越えて日光へ出て、24日にわたる、みなかみ紀行の旅を終えました。


〇短歌鑑賞
 私は、牧水の歌は若いころの方がよいと思っていましたが、人によって後半のが味わい深くてよいという意見も有力ですので、前半、後半に分けて載せました。 末尾の数字は、平成8年牧水の孫娘響子(むらこ)さんの夫である医学博士榎本尚美氏が、歌碑の全国調査をされ、190基(現在は300基)と判明しましたが、その中で同じ歌が何基に使われているかを示す数字です。


前半の歌
 “幾山河越えさり行かば寂しさの はてなむ国ぞ今日も旅ゆく”I
 22歳で帰省の途中、岡山県と広島県を分ける二本松峠で詠んだ最も有名な歌です。峠は牧水、喜志子夫人、長男旅人(たびと)と、めずらしい親子3人の歌碑が残っています。


 “あくがれの旅路ゆきつつここに宿り この石ぶみの歌は残しし” (喜志子)
 “若くしてゆきにし夫(つま)のかたわらに 永久の睦みを喜ばん母 (旅 人)
 “白玉の歯にしみとおる秋の夜の 酒はしずかに飲むべかりけり”C
 この歌は次の秋ぐさの歌とともに、25歳の秋、長野県の小諸の田村医院に2ヶ月滞在していたとき詠んだものですが、作家の井上靖が激賞する酒の歌もあります。 “かんがへて飲みはじめたる一合の 二合の酒の夏のゆふぐれ”
 “かたはらに秋ぐさの花かたるらく ほろびしものはなつかしきかな”A 小諸の懐古園の大きな石垣の石に、この歌は刻まれています。
 “白鳥は哀しからずや空の青 海のあをにも染まずただよふ”C “けふもまたこころの鉦(かね)をうちならし うちならしつつあくがれて行く”A

後半の歌
 “山かげに流れすみたるみなかみの 静けきさまをおもひこそやれ”みなかみ紀行のとき詠んだ、紀行全体を象徴する歌です。
 “いはけなく涙ぞくだるあめつちの かかるながめにめぐりあいつつ”上高地へ行き、そのすばらしい眺めに感動した歌です。
 “うす紅に葉はいちはやく萌えいでて 咲かむとすなり山ざくら花”E 後半の歌でいちばん有名であり、牧水自身山桜の花をこよなく愛していました。     
 “釣り暮らし帰れば母に叱られき しかれる母にわたしき鮎を” 死の1年前の昭和2年、牧水は幼少時故郷の川での釣りを懐古して、
 “われいまだ十歳(とう)ならざりき山渓(やまたに)のたぎつ瀬に立ちの鮎はつりにき”など釣りの歌13首を作りました。鮎釣りに夢中になり、薄暗くなって帰ってきた牧水少年に、とても心配していた母親マキは安心すると同時に、激しく叱りました。泣きべそをかいた牧水少年は、泣きながら釣った鮎を差し出したという、ほほえましい情景の歌です。
 “黒松の老木(おいき)のうれぞ静かなる 風吹けばふき雨ふれば降り”
 牧水晩年の澄み切った心境の歌ですが、昭和元年創刊した新雑誌「詩歌時代」の資金確保のため揮毫旅行を続け、その無理もたたって昭和3年43歳で生涯を閉じました。 牧水は死の前年、幼少の頃を懐古して鮎釣りの歌を作り、山頭火は死の1年前、念願の井上井水の墓参を済ませました。
 このように、人間は死の前に何らかの予兆があるもののようです。私はまだそれを感じませんので、もう少し生きると思います。 続きまして、お手元に差し上げました『声に出して読みたい日本語』についましてお話をさせていただきます。この本は第1部が160万部も売れていると言うことは、朗読や朗誦が今、強く求められているということを表しているのだと思います。私ども子供の頃は国語でも漢文でもみな声を出して読んでいました。私の父親は新聞を声を出して読んでいました。この本が今160万部も売れているということは、声を出して読む気持ちの良さが実感されているからだろう、声を出して読みますとリズムやテンポ、情緒や情感が体に染み込んで知的な活力を得られるからなのだろうと思います。

垓下(がいか)にて』                  項羽 
 
(         力抜山兮気蓋世

  時に利あらずかず        時不利兮騅不逝
  かざるを奈何せん               騅不逝兮可奈何
  奈何せん               虞兮虞兮奈若何

白頭を悲しむ代はりて』        劉希夷
  古人 の東に無く     古人無復洛城東
  今人 落花の風             今人還対落花風
  年年歳歳相似たり                年年歳際花相似
  歳歳年年人同じからず              歳歳年年人不同

安西使するを送る』            王維
  軽塵うるおし       渭城朝雨?軽塵
  客舎青々新たなり         客舎青青柳色新
  君にむ更に尽くせよ一杯の酒     勧君更尽一杯酒
  西のかた陽関出づれば故人からん  西出陽関無故人
  からんからん故人からん
  西のかた陽関を出づれば故人からん

』             李白   
  月光をる                   牀前看月光
  うらくはれ地上の霜かと       疑是地上霜
  げてを望み      擧頭望山月
  れて故郷を思う      低頭思故郷

『万葉集』      

  の野にの立つ見えてかへり見すれば月きぬ       (柿本人麻呂)
 石ばしる垂水の上のさの萌え出づる春になりにけるかも  (志貴皇子)   
 うらうらとれる春日雲雀あがりしも独りしおもへば (大伴家持)


『おくのほそ道』            松尾芭蕉
       

  鳥啼の目は

  夏草やどもが夢の跡

  荒波や佐渡によこたふ               与謝蕪村

  春の海終日のたりのたりかな

  さみだれや大河を前に家二軒

『初恋』                島崎藤村
 まだあげめし前髪の
 
林檎
のもとに見えしとき   
 前にさしたる

 花ある(と思ひけり
  やさしくき手をのべて
   林檎をわれにあたへしは
   薄紅の秋の実に
   人こひめしはじめなり

                                             若山牧水
 けふもまたこころのをうち鳴らしうち鳴らしつつあくがれて行く
 
山河越えさり行かば寂しさのてなむ国ぞ今日も旅ゆく
 白鳥しからずや空の青海のあにもまずただよふ
 白玉の歯にしみとおる秋の夜の酒はしかに飲むべかりけれ

                                                (了)