私のまぼろしのオリンピック   

 講師 馬場 清彦氏
    
早稲田大学体育局元講師
      当会会員
     28年法科

      

     
平成13年12月2日
     
東久留米市中央公民館
 

 
 ご紹介いただきました馬場でございます。俳句部をはじめ東久留米稲門会にも常連になっておりまして、余り大きくない私を見掛けた人が多いと思います。今日は体操というスポーツを通じまして、これはささやかではありますが、私の人生にとってはそれだけみたいな感じはありますけれども、そういう方面からのお話を、普段皆様があまりご経験や知識のないようなところで、興味を持っていただけそうなところを、お話してみたいと思います。
 まだ始まったばかりで、雑学塾と言われても何をどうゆう風にするかわからなかったんですけれども、手前勝手に判断いたしまして、雑学の雑の方でいいんじゃないかということで、いろいろ夜も寝ないで昼寝をして考えてまいりました。皆さんはひとりひとりそれぞれの人生をお持ちになって、渡ってこられて、いろんなエピソードあるいは趣味とか、いろいろお仕事のこととか、プロジェクトXみたいなお話を一杯お持ちだと思うんです。ですから口火を切る積もりで、今日の私はカラオケと同じで早くやった方が気楽ですから、坂本先生の後を追い掛けて、第2回目の講師をやることになりました。

 私の体験しました体操競技というスポーツについて、いろんな角度からお話を致します。多分何か面白いなと思われることを引っ張り出してきました。まず私事で恐縮ですけれども、昔日本が戦争に負けて、私は北京から引き揚げてまいりました。丁度その頃北京での出来事で、あれは小学校5年生でございました。体育の時間に懸垂をやらされました。ほかの人が5回とか多い人で10回だったのに、私はさっさっさっさっとやりまして、50回もやりまして、先生からもうやめろと言われちゃいました。先生は心配になったんでしょうね。それからですよ。俺はもしかして、もしかしてと思うようになりました。ひとつのきっかけですね。仲間からだんトツで優れたものを持っているという自信と確信とが裏付けになって、折があったら、そういう方面をやりたいなあと思いながら引き揚げてまいりました。
 私共の時は中学は旧制なんですが、引き揚げてきて4年に編入されました。それから2ケ月位あとに、運命的な私の体操の恩師に出会いました。素晴らしい先生でした。おかげで3月20日に引き揚げてきて、6月から部活に入ったんです。今や小学校、否、幼稚園頃からもう始めないと間に合わないといわれているんです。まだ私の頃は創世期といいますか、中学4年生ですから、14歳か15歳ですね。それから始めたんです。食糧事情が悪いなか、お弁当なんか蒸しパンみたいなものを作ってもらって、少し余分に持っていったりして、学校が終わってから腹拵えをしました。何せ戦後のことで器具なんかないんですよね。私は北九州市に引き揚げてまいりましたけれども、北九州市の中で1ヵ所だけ門司の方に平行棒なんかがあるということで、それからそちらに練習に行きました それでやっているうちに、自分で思ったんですね。実は俺は天才だと思ったんですね。今でもそれを引きずっているんですよ。自分では。自惚れる訳ではないんですけれども、何か他人よりもこと体操の動きになると、一歩先が見えるんです。これはやっぱり大切なものだと思うんですね。スポーツは何でもそうですが、これはやっぱりね、努力だけじゃ駄目な部分があるんですよ。普通、俗に国民体育大会までは努力すればいけるんです。これが全日本クラスになってトップになるとか、国際級の選手になると、努力だけでは駄目な部分がどうしても出てくるんです。もって生まれた才能というか。歌なんかもそうですね。つくづく痛感するんですよね。悔しいとおもいますよ。親からもらった、いい喉を持っている人は本当に羨ましい。そういう部分がありまして、何故天才と思ったかと言うと、最初練習を始めて1年半で日本で2番になったのです。今は1年半でなったら大変ですよね。で、すっかりその気になって、俺は天才だと思ったら、そこにもう一人、超天才、ど天才が居たのです。それが小野と言いまして、ご存知の方もいらっしゃるでしょうけれども、今は小野清子の旦那と言われていますが、当時は「鬼に金棒、小野に鉄棒」とか新聞に書かれていました。これが僕にとって本当に人生のライバルですね。だから、今でもたまに会って一杯やると、酒はうまいです。これは本当にうまいです。お互いにうまいといっています。ど天才が出てきて、悔しくてね。私はあとから二番と言われて、1番は誰かと聞いたら、秋田県の能代市の小野喬という奴だとわかったのです。何だか気になる奴が居たんですよ。試合の時に順番を待っている間にお互いにわかるものがあるんですね。 その頃は、昔の剣豪ではないけれども、何とか流の使い手の何とか先生からというようにずっと引き継いでいるのがわかるんですね。技術的にわかるんですよ。よく剣豪の本に書いてありますね。あれと同じで、まだ教える人が少なかった時代なんです。それでインターカレッジ、全日本学生選手権大会なんかに行きますと、あいつはあの人に教わった、どこの大学の誰の系統だとわかるんです。ですから、剣豪の本なんか読みましてね。何とか流とかあると成る程なあと納得できるものがあるのです。 悔しいものですから、あとの1年、無茶苦茶に練習しました。私の出身地で国体がありましてね。それで初めて日本一になったんです。丁度新制高校に切り替わる時で、新制高校の初代チャンピオンになったんです。そうしましたら、今でも覚えておりますが、近藤天さんという早稲田の体操部の先輩がいっらしゃいまして、レスリングの八田さんと仲が良かったんですが、当時大会副会長をやっていました。私は表彰状をもらったりしていた時に、「良かったね。君はね、早稲田の顔をしている。是非早稲田に来たまえ」と言われ、何だかよくわからなかったのですが、すっかりその気になりまして、早稲田の受験ということになりました。 それで、早稲田を受ける気になって、つい漏らしたら、それが地元の朝日新聞に「馬場選手、早稲田受ける」とでかでかと載ってしまいました。入ったのではなく、受けるということですよ。私は結局は法学部に入ったんですが、当時で12倍から13倍ですからね。これは困ったことになったと本当に追い詰められました。試合の時の緊張感どころの話しではなかった位に追い詰められました。早稲田の受験で上京しましたら、当時の旧制高校の白線帽子が大勢居たり、予科練帰りのおじさんが一杯居て、坊主頭の私なんか絶対に駄目だと思いましたね。それがどう間違ったのか、うまいことは入れて、すごく喜びましたね。というのは、練習ができると思って喜んだんです。勉強ではないんです。 私には未だに学友というのは5人しか居ないんです。悪友なら一杯居ますがね。授業で代返をしてもらうのが嫌いだったものですから、代返はしてやったけれども、してもらうのは嫌で、結構さぼりましたけれどもね。学友というのは5人しかいない。スポーツ関係の友達はいやっと言う程いるんですけれどもね。私は北京から引き揚げてきたものですから、中国会話は日常会話には不自由しない程度のことができました。第2外国語というのがありましたね。あれで中国語をとりましたら、口笛をぴゅーぴゅーでしたね。そうすると試験の時になりますと、何故か私の周りを野球部だとか何だか、でかいのが囲むんです。野球部の岩本だったかなあ。いつも私の後ろに居ましたね。私は大きくないから上からのぞくんです。そんなことがありましたね。勉強の方はあんま リ好きではないんで、これで良しとしまして、4年で無事に卒業したということで勘弁していただいて、私の個性である体操の話をします。 まず体操は男子と女子がありまして、男子は6種目、ゆか運動、鞍馬、吊り輪、跳馬、平行棒、鉄棒と6つです。女子はゆか運動、跳馬、平均台、段違い平行棒と4種目です。ゆか運動で面白い話があるんです。床という字は床(とこ)とも読みます。それを不埒な奴が床(とこ)運動と言いましてね。体操協会がこれを平仮名に変えたんです。そういうことも過去にありました。体操というのは読んで字の如く、体を操ると書いてあります。ただ操るのではなく、非日常的な動きとかジャンプとか全てをやるんです。私のことで考えますと、もし私が戦国時代に生きていたら、きっと忍者になっていたと思っているんですよ。しかも上忍ではなく下忍ですよ。頭を使う方ではなくてね。猿飛佐助みたいな風になって生きていたんじゃないのかな。まあー死んでいたかもしれませんが。血が騒ぐんですよ。ですから、忍者ものの本なんか家にはごまんとあるんですよ。 ただ、体を操るだけではなく、難度、ウルトラCの話などご存知だと思うんですが、これがAから東京オリンピック頃ではA、B、Cとありまして、Aがやさしい。例えば逆上がりはAには入りませんが、鉄棒をくるくる車輪をやったらAとか、そんな風で、Bになったら、ちょっと難しい、ややっこしくなる。Cになってくると、人間ではないようなことをやらなくてはならないということで、それにウルトラがつきますと、これは本当に人間ではないアクロバティックな、自分でもびっくりするような技になってしまうんですね。最近では、D、E、Fまであるんです。けっしてご婦人のカップサイズではありませんよ。もうそこまで来たようなんです。さらに後半には、体操の技に選手の名が付くようになってきたんです。私共がやっている時にそういうことがあったら、馬場というのはずいぶんあるんです。残念ながら当時はなかったんです。それと日本語と英語とドイツ語とロシア語、これらの言葉を使っていろいろと組み合わせて作った技の名前は本当にややっこしいんですよ。 そうですね。厚さ1センチ位のルールブックがありましてね。それと技術教則本というのがありましてね。こと細かに書いてあるんです。何故そうかと言うと、これは採点競技でありまして、どうしても主観がはいるんですね。贔屓にする、好みの技、嫌いな技、いろんなものが錯綜しましてね。それではいかんと言うので、ちゃんとした、統計学上の雨垂れの計算式がありますね。1滴ずつ量をはかるのではなくて、100滴とか1000滴を集めておいて、それを割って値を出す。そういう風にして、そこまではいかないけれども、審判員が4人おりまして、その上に主任審判員というのが1人おります。4人の審判員が採点をしまして、一番上と一番下をカットして、真ん中の2つを合わせて半分に割る訳です。ですから、かなり主観が取り除かれるような風にはできているのです。それでも、0.3、3分以上離れますと、主任審判員が4人を呼んで、何故こんなに離れるのか話し合いをします。大抵その半分になりますがね。これはもう採点競技の宿命ですね。昨日もTVでアイススケートのフィギュアをやっていまして、やっぱりえこ贔屓があったり、いろいろあるんですよね。審判の腕が悪いとかいうこともありまして、出来る限り客観的な点をつけるという工夫がされている訳です。


 技に名をつけた代表的なものをあげますと、鞍馬ではシャギニアン、吊り輪のアザリアン、鉄棒ではムーンサルト、これはご存知かもしれませんね。これは月面宙返り、これはしゃれたネーミングだと思いますよ。あとは3回宙返りとか、日本人では跳馬の山下跳びとか塚原跳びとか、平行棒では森末とか、そんなところがあります。専門的にやっていた我々でもわからなくなりました。特に「度忘れの数増えにけり古希師走」です。こうなっちゃったものですから、どうも物覚えが悪いのです。
 それから全くおかしな話ですが、猿と人間がもし体操の試合をしたらということを考えてみたことがあるんです。猿の運動能力たるや、私共から見ますと、本当によだれが出る位素晴らしいんです。忍者の好きな私にはとてもたまりませんですね。子供の頃、体操を始めた頃ですが、猫をつかまえてきて、逆様にしてパッと落として研究したものです。猫は逆さに落ちても、さっと立っているんですね。これに魅せられましたね。ただ、運動能力の高い猿と人間が試合をしても、猿は人間には絶対に勝てないんです。と言いますのは、猿は美学がない、美的感覚がない、芸術心がないからです。人間は美に対する感覚を授けられて、アニマルとは違うという結論に達しました。猿には負けないぞという身勝手な論法ですがね。

 体操競技というのは、矛盾に満ちた、矛盾を目標にしているというか、そういうスポーツです。難しい技をやればいい点をもらえるが、失敗したらもう駄目です。美しく安定的にやらなければならないし、楽々ウルトラF位のところを目指さなくてはならない。これがまさに矛盾なんですね。体操競技では美しさと難度というのは両極端にある訳なんです。美しくやろうと思ったら、やさしい技をきれいに指先の末端まで神経を集中してやれば、いい訳ですけれども、それでは難度が足りない。これは全く矛盾を含んでいると思い、自分で哲学しております。
 私はあまり大きくないもんですから、同じ技を同じ条件でやった場合は手足の長い、身長の高い方がきれいなんです。優雅なんです。そうすると点がいいんですね。これに勝つにはどうしても難度を高めないといけないんです。平均的な日本の選手と外国の選手を比べた場合、やっぱり私の状況と似たところがありまして、日本の選手がV10までやった時は難度を高めて高めて研究して、ボクシングで言えばノックアウトパンチ位の技を高めてやって、初めて世界一になったのです。そして、これを維持し続けて。そうすると今度は回りがそれに追い付いてきて、今やもう駄目なんです。同じことをやっていたら、外国人の方がきれいなのです。こういうことを言うと、セクハラになるかもしれませんが、女子選手、これはやっぱりすらっとして上手でしかもなお美人だと、点はとってもいいんです。新体操なんか立っただけで、日本は1点位減るんじゃないかと言われていますがね。ここだけの話ですよ。

 体操というのはもうひとつ、恐怖心との闘いなんですよね。これが一生懸命まではできるのですが、命を懸けて試してみる。そうするとひとりではできないんです。気の合った友達に補助してもらって、まさかの時に死なない程度にさっと助けてくれる。こういう状態で我々はやっていたんです。それではもう済まなくなってきて、最近はウレタンのチップ、これが入ったプールみたいなものを作りまして、その中と周りに器具を配置しまして、どこから落ちても大丈夫なようにしています。それでも、ちょっと首を痛めることがあります。それから安全器具といいますかね。腰にベルトをつけて両側にロープをつけて、ぱっと引っ張る訳です。そういうこととか、鉄棒なんかではもう、鉄棒がこう立っています。そこの横に立ってね。丸くて長いパットを持っているんです。そして、離れ技でぶつかりそうになったら、ぱっとこういう状態のウレタンのパットがぴゅーとこう飛んで来て、選手と鉄棒の間に入り、被害を最低で済むようにお互い助け合ってやるんです。ゆか運動なんかもずいぶん床が柔らかくなりましてね。私共の頃でしたら、3回宙返りをやっていましたね。コンクリートの上で後転倒立というのをやっていました。今の選手ではできませんよ。我々は痛いから一生懸命手を入れてカバーするから、できたんですよね。月日とともにいろんな器具なんかも進歩しましたね。1週間ぐらい前に俳句で見掛けましたね。跳び箱の突き手一瞬秋の雲だか何だか、季語が入ったの。僕が作らねばならないのにやられちゃったと思いました。新聞に載っていましたよ。

 先程言いました恐怖心との闘い、合理的で無駄のない練習をしていても、例えば、平面ではできることが高いところでは怖いんですよね。そういうことがありまして、安全器具の配慮がうんと行き渡りました。それでも、かけがえのない命ですから、怖い訳です。でも怖かったら、もう駄目なんです。あれはソヴィエトだったか中国だったか、小さい子供が体操をやりたいと言うと、平均台の上をさあーと走らせるんです。怖がったらもうオミットされるんですね。女子の場合はお婆さんの代までさかのぼって、どういう体型か調べる位なんですね、中国は。ですから、日本は最近は負ける訳です。野球の選手なんかはアキレス腱を切ったら、もうこの世の終わり位に騒ぎますね。競技生活は終わりだなんて言って。とんでもない。体操は日常茶飯事なんです。関東労災病院が日吉の慶応の近くにあるんですが、ここはいつも各体育大学の学生でわいわいわいわいなんです。何だお前またやったのかとかね。ご丁寧にも右を切って左を切って入ってくる奴がいるんです。具志堅という名前覚えていますか。世界選手権をとった選手です。彼がね、やっぱり両方切ったんですよね。入院する度にめちゃくちゃ強くなって出てくるんです。足が使えないもんだから、腕と上半身の鍛錬をやっていたんですね。もう吊り輪の強いこと、強いこと。あれもおかしなもんだ。強くなりたかったら、アキレス腱を切れなんて冗談言ったりしてね。

 私はあまり話したくないんですが、題が「私のまぼろしのオリンピック」になっちゃった。1952年にフィンランドのヘルシンキで戦後初めて日本が参加するオリンピックがあったんです。私は予選をずっと通って最終予選で6位になりまして、オリンピックの代表選手になり、最後の合宿までやったところに、文部省から通達が来ました。外貨が足りないんで全種目で割愛させていただくとお役人用語で言ってきましてね。これが丁度6番目の私に該当するんですよね。最後の最後までやって、後援会までできて、お金まで集まり始めたのに、私が積み残されてしまった。だから、私にはヘルシンキオリンピックは幻なんです。こんなことあまり言いたくないんですよね。当時は学生でしたから、まだまだあとがあるさというようなもんで、その時はまだなんとかなりましたが、それ以来どうもオリンピックには波長が合わないんですよね。その間の世界選手権とかいろんな国際試合の時には快調にいくんですがね。一辺行きそびれると、けちがついちゃいましてね。そういうことで今頃年取ってから、非常に悔やんでいますね。もう少し慎重にやっておけば良かったとね。モスクワでやったオリンピック、これは西側がボイコットしましてね。日本体操チームもいけなかったのです。今年もあったんですよね。ベルギーのヘントというところで体操の世界選手権大会が開かれたんですけれども、テロなんかのことで自粛しましょうということになりましてね。やっぱり選手は泣いていましたね。何だか私ももらい泣きしそうな感じでした。実感として。 日本舞踊のお師匠さん達の立居振舞が実にしとやかで雅やかでしっとりした趣があるのは、ご存知ですね。日本舞踊だけでなくてクラシックのバレリーナもそうですね。立居振舞は、車のハンドルに遊びがありますが、あれと同じで、ゆとりがないとゴーカートみたいにぎくしゃくして、ロボットみたいな動きになるんですね。私なんかも不細工なこんな体をしていてもね、見せ方によってはこうやわらかく見せられるんですね。思い出しましたよ。貴乃花の土俵入り、股割りを十分にやっているんですね。足が一直線にぱぁーと上がるでしょう。私はああいうところに美を感じるんです。ゆとりを持って上がっているんです。例えば、90度位しか足が上がらない人がやったら、私なんかもう見ていられないですね。120度位上がる人が90度なり100度なりやると、見てても本当に楽ですね。私はそういうところに美学を感じるんです。股関節をちょっと鍛えて180度までとは言わないんですが、130度位足が開くようになれば、転んでも怪我をする率が劇的に減ります。体が固いというのは筋肉が固いのではなく、関節の可動範囲がどこまであるかということなんです。これで体の柔らかさが決まるのです。頭の柔らかさはこれとは別ですがね。うんとやっていますと、私も年を取ってきて時々転びますけれども、怪我はしませんね。ころんと転ぶ。酔っ払っていても上手に転びます。

 ところで、筋肉というのは最近の学説によりますと、速筋と遅筋という区別があるようです。マラソンや遠泳をしたりする人は遅筋が先天的に優れているようです。速筋というのは反射神経みたいなもので、私はこの速筋の固まりなんです。遅筋が全然ないんです。だから今でも鶏が嫌いです(*ダジャレ)。 (*しばらくしてわっと会場が笑う。)〜〜遅いなあ。先程猫の話をしましたが、猫の研究だけでは駄目で、当時流行りました8ミリカメラで撮ったフイルムを逆回ししたりして、すごい発見やヒントを得たことがありました。

 体操選手というのは顔を洗えないんですよ。と言うのは、無精とか手が回らないとか、そういうことではなくて、手にたこができてましてね。これでいきなり手で顔を洗うと顔に傷ができてしまうんです。夜寝る時は、ワセリンを手に塗って軍手をはめるんです。そして、朝ぬるま湯に手を浸してやわらかくして、それから顔を洗うんです。本当に手が夏蜜柑の皮のようになるんです。最初のうちは豆だったんですが、たこになっちゃうんです。私の結婚したばかりの頃のことです。このたこを一生懸命削って、大きく取れることがあるんですよ。嬉しくてね。その頃柳屋のポマードというのがあったんですが、あの空瓶に削ったたこをしまっておいたんです。そうしたら、新婚早々の妻の「キャー」と叫ぶ声が聞こえたんです。びっくりしました。妻がこれを見て卒倒してしまったのです。よせばいいのに蓋を開けて見てしまったのです。あれにはこちらの方も本当に驚いた。 なにせ、物もないお金もない時代に結婚したものですから、鶏皮のスープに卵を散らして塩・胡椒、それと鯨のベーコンで栄養をとっていました。あれは安かったですよ。私の学生の時は何かと言うと鯨のベーコンを食べていました。昔のプロ野球の金田選手がそういうスープを作って飲んでいたようで、これはやはり同じ心境ですね。

 これからエピソードに入りましょうか。先程食べ物の話が出ました。私の先輩で中国大陸を歩き回ってきたという猛者の二条さんというお公家さんがおりまして、全日本の2位とかにおられた方で。その先輩にある時、「おい馬場!ついてこい!栄養をつけさせてやる」と言われ、私は喜んでついていきました。新宿の西口の今で言う、思いで横丁です。あそこに何の肉を食べさせるのかわからない店がずらっとあったんです。そこに行ってシチューというものを食べさせてやると言われ、実際に食べたら、おいしかったんです。あとから聞いたら、当時の進駐軍といいましたね。米軍の食べ残しのパンだとかバター、チーズ等をごたごたと煮たものだったんですね。うまかったけれども、その夜すごく下痢をしました。これは材料が悪いのではなくて、私の胃袋がそういう脂肪分に慣れていなかったんですね。バター、チーズを当時は食べられる立場ではなかったし、これはうまいと腹一杯食べたんで、やられてしまったんですね。悔しくて、治ってからまたリベンジですよ。行きましたね。次からはもう大丈夫でした。もりもり栄養をつけました。それから、新宿の南口付近にハッチャンというところにレバーかつのようなかつがあるんです。これはどうも犬のレバーらしいんですけれども、まあー結構うまかったんです。あやしげな酒と一緒にいただきました。それも自分じゃお金がないから、必ず先輩についていって、良く飲ましてもらったり、食べさせてもらったりしました。感謝です。

 脂肪の話のことですが、先程出ました近藤天さんという日本体操協会の会長が私の先輩だったのです。戦後初めて国際会議というのに出掛けたんですね。なかなか海外に行けない、ドルが1ドル360円の頃でした。意気揚々と帰ってきましたら、いろいろと土産話をしてくれるんです。「実は俺はね。ホテルでシャワーを浴びてね。バスタオルを使わなかったよ」と言うんです。「汚いんじゃないんですか」と言ったら、「いやね。ぷるぷるっとこうやったらね。みんな水滴がぶっ飛ぶんだよ」と言うんです。と言うのはそれまであまり食べなかったバター、チーズ、ミルクという脂肪分をとるもんだから、表面がつるつるでぷるっとしただけでいいんだよと言うんですよ。私も早く一流選手になってぷるぷるっとやってみたいものだと思いました。これが本当のハングリー精神ですね。

 今も昔も変わりませんが、新宿の歌舞伎町で、あそこで私の先輩が「馬場、お前。ご機嫌だったなあ。」と言ったんです。丁度野球の早慶戦が終って、あの時は勝ったもんだから、勢い付いて新宿で安酒を飲んだんでしょうね。安い酒に浮かれて、大道芸人みたいなことをやってしまったんですね。私は全然身に覚えがないんです。「そんなことしていませんよ」と言ったら、先輩から「あそこで宙返りしたり、バク転したりして、拍手もらって、喜んでいたぞ」と言われました。全然覚えがないんですよ。先輩から「それでよく、お前。角帽をおとさなかったなあ」と言われ、さらに「僕。やってませんよ」と言ったら、先輩から「馬鹿言え」と言われてしまいました。その先輩は真面目な人で、嘘をつくような人ではないんですよ。真面目が背広を着て歩いているような先輩なんですね。そう言われれば、もしかしたらそうかもなあと思ったりしていました。

 そろそろネタも切れてきたなあ。私の日中外交の話をやってみましょう。世界青年スポーツ友好大会というのがありまして、新潟の港からアレキサンドリア・モジャイスキー号という、当時のソヴィエトの大きな客船に日本の全スポーツ団体が乗って、さらにいくつかの文化団体も乗っていましたね。ナホトカまで行きまして、そこからハバロフスクまでは汽車で移動しました。そこまで行きますと、あの頃はまだ国交がなかったのですが、熱い視線を感じてそちらを見たら、日本人の女の人が、向こうで結婚しちゃったんでしょうね、日本に帰りたいけれどもという感じの人が居たんです。「あー、もしかしたら、あなたは日本人ですか」と尋ねたら、すっと群集にまぎれて居なくなったんですが、暫くするとまた居たんですよ。あれはやはり日本というもの、祖国というものをすごく感じていたんじゃないのかなあと思いましたね。そんなことがありながら、ハバロフスクからシベリアの方、一晩だったかなあ。ずっと走りましてね。まる一昼夜位走ったのかなあ。チタという空港のあるところまでシベリア鉄道で行きました。着く駅ごとに歓迎だということで、大勢の人が、国の命令ですから、来ているんです。最初はにこやかにしているうちにだんだんと顔が引きつってきましてね。笑い顔を続けるというのも大変なんですね。実感しました。天皇陛下が小さく手を振る気持ちがわかりましたね。止まる度にカチューシャみたいな可愛い女の子が一杯いるんですよ。だけど、みんな裸足なんですね。当時靴がなかったんでしょう。ソヴィエトも大変なんだと思いましたね。その後は飛行機に乗りました。最初はプロペラ機で、2時間程飛んだら燃料補給のため降りるんです。そうすると昼食なんです。そして燃料を積み込んで、まだ飛びます。2時間程するとまた着陸します。するとまた、昼食なんです。これを3回程続けてから、やっと、ジェット旅客機に代わりました。ジェット機はまだ自由圏にはなかったんですよ。ソヴィエトはあれだけはしっかりしていましたね。
 因みに、私は大学を卒業してから日本飛行機という会社に就職しました。営業担当で自衛隊の飛行機なんかが落ちると、さっと見積もりに行き、修理の注文をとってくる役目をやりました。YS−11の設計図を背負って通産省にも行きました。あの頃はよく停電がありました。エレベーターが動かないんですよ。仕様がないから、40キロもある設計図を背負ったまま、階段を昇ったこともあります。お前には適職だといわれながらね。
 あれ!なにを話していたんだっけ。ああ、そうそう、日中友好の話だったですね。チタからやっと飛行機に乗ったんですね。その時に頼まれた訳ではないんですが、乗ったジェット機に当時としては初めての高揚力装置というのが主翼のところについていたんですが、これをこっそり写真に撮って、あとから日本飛行機の設計部長に渡してやりました。まあースパイみたいなものですね。そんなことをしながらいい気持ちになって、モスクワ空港に着きました。
 私が子供の頃北京に居たもんですから、モスクワに着いてから中華人民共和国の体操選手の連中と仲良くなりました。まだその頃は、果たして生きて帰れるかどうかわからないという感じの頃でしてね。共産圏の方に行ったりした場合はね。だけれども私は子供の頃に中国人と喧嘩をしていましたから、悪い言葉だけは達者なのです。それですっかり中国の体操隊と仲良くなり、向こうもこっちもキャンプに呼んだりして仲良くやっていました。丁度中国が日本との雪解けを願っている状態だったんですね。私が体操隊との関係を開拓したと言うんで、向こうからパーティに皆様を招待したいという話になりました。このことを東団長、東京都の東知事の弟さんでしたが、この方が決断されて、パーティををやることになりました。そこまでは実に上出来だったんです。お役に立ったなんて喜んでいたら、中国と日本の秘書がやってきて、今までの経緯を考え、私に司会をやってもらいたいと言ってきました。私は簡単に「はい、いいですよ」と引き受けましたんですが、私はなにせ子供の言葉しかわからない訳です。それでもうすっかり弱ってしまって、パーティの席上、初めてのパーティにお招きいただきありがとうございました位言ったところで、はっと気付きましてね。中国語を今でも覚えていますよ。「難多的話我不能翻訳。現在想到了。我的中国語是小孩的時候学習的。対不起。」 これは、「私が子供の頃しか勉強していない中国語で、むずかしい言葉をしゃべれないことにたった今、気が付いた。御免なさい」と言う中国語だったんですが、これをしゃべったら、皆がどっと笑いまして、それまで固かったパーティの雰囲気がそれからガラッと固さがとれました。両方の秘書が英語に堪能だったものですから、あとはそっちにお願いして、そこで私の日中外交は終ったのです。半分だけ面目を施したということでした。

 芸者さんからお金を巻き上げた話をしましょうかね。私は体操をやめてから、東京オリンピックが終わった翌年に、脱サラをはかりました。本当は日本飛行機が同族会社でいくら働いても社長になれないとわかっていたからです。三井銀行の本店業務部との関係でPR会社、パブリシテイの会社をパートナーと二人で起こしました。3年位経ってから、会社も軌道に乗って、慰安旅行をやりましょうということになりました。当時は20名位の社員でした。箱根にいきましてね。そりゃご機嫌でね。芸者さんも4、5人やってきたんですね。そのうち誰かが、私が体操をやっていたという話を始めて、まだ宙返りできるかなあということになり、私はだんだんと追い詰められたような気持ちになっていました。そのうえ、パートナーがアジるんですよ。芸者さん達に「君達が1000円札を出して賭ければ、やるよ」とね。その時私は学んだんですが、芸者さん達は帰りのタクシー代位は持っているんですね。そうしたら、本当になけなしのお金を並べたんですよ。やらざるを得なくなりましてね。私にすれば、そんなこと屁の河童なんですよ。まだ40前ですからね。碁盤を持ってきて、痛いとまずいんで座布団を敷いて、その上で宙返りして、酔っ払っていたから一生懸命着地して止まったんです。これでお金を全部取り上げてやりました。ただ、相手が芸者さんですから、これはチップに消えますよね。男としては仕方がないことですね。そういう馬鹿みたいなこともやっていました。

 そろそろ時間が来たようです。あまり面白くないエピソードもここら辺りで終りにします。皆様ご静聴ありがとうございました。(了)                                                                                                
    私の競技歴  昭和28年卒(法) 馬場清彦

 昭和 21年  3月に中国の北京から北九州市に引揚げて帰国

           6月から練習開始        (旧制中学4年生)

     22年  11月第2回国民体育大会出場 個人総合第2位

     23年  11月第3回国民体育大会出場 個人総合優勝

                                団体(福岡)優勝

     24年  4月早大入学ヘルシンキ五輪一次予選出場 第12位

     25年           ヘルシンキ五輪二次予選出場 第8位

     26年           ヘルシンキ五輪最終予選出場 第6位

     26年  全日本大学体操競技選手権大会 団体  優勝

     27年  ヘルシンキ五輪最終合宿を終り国内残留(5名のみ出場)

     28年  早大卒業 日本飛行機(株)に入社

           社会人選手として全日本実業団選手権 個人第2位

           神奈川県代表  国民体育大会  個人 団体 優勝

           神奈川県より  スポーツ特別功労賞    受賞

           全日本選手権毎年出場

           国民体育大会毎年出場

     32年  世界青年友好スポーツ大会(MOSCOW)出場日本団体第2位

                個人種目別 つり輪 第5位

           アジア五輪開会式で模範演技

           日ソ対抗体操競技大会出場

          国民体育大会10回連続出場で表彰さる