月は東に日は西に
早稲田大学文学部教授

 蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」という句を知ったのは、中学二年の時で、国語の教科書に載っていたのだった。読んでわたしはその光景を思い描いた。
 ―道をはさんで両側に、菜の花畑が果てもなく広がり、遠くに低い山なみが霞んでいる。西の山の端に、いま落日がとどこうとしている。折りから東の空には、菜の花の中から浮かびでるようにして、まん丸い月が昇ってきている―
 菜の花畑はなぜか視野の限りに広がっているのでなければならなかった。月はなぜか満月でなければならなかった。そう思い込んでしまったのである(「いちめんの菜の花」ということばを十行も二十行も並べたのは、山村慕鳥だっただろうか)
 ところが、それから何年たっても、夕日と満月が同時に見られる光景には、とんとお目にかからなかった。わたしの住む風土では、そもそもそういう現象が無理であるらしかった。もちろん、都会のビルの谷間では見られるはずがない。蕪村の足取りを辿っても、京都、大阪、丹波、丹後(与謝村はわたしの郷里の隣村であり、「夏川を越すうれしさよ手にわらじ」と詠んだ野田川は、わたしも泳いだ川である)いずれの地方も山が多く、はてなく広がる畑も、日月二円の同時滞空も、思いかなわぬ夢でしかない。考えてみれば、月は半月でも三日月でもよいのだし、菜の花だって、一反二反の畑が散在するのであっていっこうに差し支えはない。むしろそうであってこそ、日本の光景というものだろう。小学唱歌「おぼろ月夜」だって「菜の花畑に入り日うすれ・・・・夕月かかりて匂いあわし」とうたうあの歌詞は、信州の狭い谷間の村で作られているのだし。少年の日になぜあんな思いこみをしたのだろう。せまい盆地の山あいで過ごすうちに、平原への憧れが芽生えていたのだろうか。
 さてそれから約三十年後の夏、北京在住の折に内モンゴルの大草原を訪れた。大草原というのは、いわばなだらかな丘陵地帯であって、大地の起伏が多いのが意外だった。おまけに空気中に羊のにおいが充満していて、これは逃れるすべがなく閉口した。草もびっしり生えているわけではなく、その年は雨が不足とかで、老人の頭髪のように, 些かわびしい生えぐあいだった。それはともかく、夕方、水場に馬が集まってくる。水を飲んでいる馬の四肢のむこうに、なおぎらぎらと燃えながら、夕日がゆっくり沈んでゆく。振り返ると東の空には、満月がぽっかりと浮かび上がっていた。夕日と満月が東西に向き合う光景がそこはあった。菜の花こそなかったけれど、少年の日に思い描いた光景が、現実のものとして目の前にあった。わたしは西に東に首を回しながら、ひとり感慨にふけっていた。あるいは各地で見られる光景なのかもしれない。なにしろ大陸は広大無辺なのである。