『早大さ』
                            坂本信太郎 早稲田大学名誉教授 当会顧問
 十年位前のことと思う。大学での授業中の私語の多さが世間の話題に上がったことがあった。或る大学では職員を教室に配置し、私語する学生を制止したり、チェックするとか、種々と防止に苦心されているのを耳にしたものである。しかし、わが早大生に関しては、どの学部からも、どの先生からもそのようなことを耳にすることはなかった。どの教室も静かで、学生は整然と受講していた。他大学から出講の先生方からは異口同音に賞賛の言葉が浴びせられ私達は擽ったい想いだった。けれども、どなたもが内心「早大さ」と胸を張られていたことと思う。それから数年後私は同じ学部所属のY先生から面白い話を伺い、再び「早大さ」と言う誇らしい気分に浸った。
 Y先生は、今でも尊敬申し上げている先生で、週一回G大学に出講され、各学部男女学生約五百人程に一般教育の授業を担当されていた。教員にとり一番大変で、つらく苦しい作業は試験の採点である。答案を階段から投げ落とすとか何枚目ごとに同一点をつけるのだろうとか言う学生が居るが勿論俗説に過ぎない。真剣に答案に取り組んでいる学生諸君の姿を目に浮かべたらそんな馬鹿な事が行われる筈はない一枚一枚読ませて頂く。
 G大学での部厚い答案の山を静かに読まれていたY先生は、途中で仰天し、息をのまれた。「私が昨日見てきた映画について」、「僕の一日の生活」、「旨い食堂の案内」・・・といった出題に無関係な答案に遭遇し、しかもかなりの枚数を発見されたからである。「先生、その答案をどう処理されましたか」。私の質問に「それはね、君・・アッハッハッハ、では失礼」。と先生は泰然と背を向けられた。私は「やっぱり早大は違うな」とつぶやいて帰宅した。先生が定年になられ、そして私も定年を間近かに迎えた期末試験に思いがけない答案を目にして狼狽してしまった。曰く「おいしいカレーの作り方」。私の目からはいつまでも「カレー○○グラム・・・」の文字が去らなかった。「早稲田大学よ、お前もか」・・・・。その後、同様の答案が繁殖しつつあるや否や、私は寡聞にして知らない。