上から読んでも下から読んでも
 三田 三  33年卒 政経 会員
自分で付けた訳ではないが我ながら相当変わった名前である.三田三と書いてこれだけ.苗字が三田で名が三、「どう読むのか」とよく聞かれるが、正しくはサンダミツである.
 名前には誠とか賢とか、将来こうなってほしいという願いを込めた字がよく使われる.しかし三にはこれがない.三省堂の大辞林によれば三は「数の名」「二より一つ多い数」「二番目の次の順番」とある.まさに番号でしかない.誠実だ、賢い、優秀だと自分で言ったり書いたりしないで済むのは助かるが、威厳には著しく欠ける.
 画数は全部で11画、そして左右、上下、裏表なしである.「山本山」などは相手にもならない.11画という画数は姓名判断上ではなかなかいい画数らしい.野末陳平氏の著作になる「姓名判断」によると、なんでもこの画数を名前に持つ人はまず食うには困らない、とある.生きていく上で食うには困らないほどありがたいことはない.庭で朝から晩まで餌を探して啄ばんでいる雀が聞いたら飛び上がって喜ぶに違いない.
 上から読んでも下から読んでも同じという名前では「家相の科学」などの著書で知られる建築家に「清家清」氏がおられる.この先生がなにかのコラムに「親から良い名前を付けてもらったと思っている.そこで自分の娘には「清家いせ」と付けた」と書いておられた.「せいけいせ」、なるほどどちらから読んでも同じである.
 法曹界に「佐藤藤佐」という相当著名な人がおられたと記憶しているが、どのような経歴の方だったかは失念してしまった.数年前、何気なしに新聞の訃報欄を見ていたら「藤田藤」という名前が出ていた.名前の藤は「かつら」と読むらしい.履歴には元伊藤忠副社長、元ダイエー副社長とあった.
 さて、名前はこれくらいにして上から読んでも下から読んでも同じになる回文の紹介.「竹屋が焼けた」「釧路よりよろしく」などは誰でもご存知の簡単な回文である.
 もうじき年が改まるとあちこちから新年会の案内がくる.こちらは顔を出してあちらは失礼するといる訳にもいかない.「『え、また新年会かい』『観念したまえ』」.連日連夜の酒に寝不足も重なって疲労困憊、肩は凝るし首筋は痛むし「身体が戸板みたいと慨嘆し」と言った仕儀ともなりかねない.
 正月が過ぎると日脚も少しずつ伸びはじめ、やがて大相撲の初場所が始まる.大きな屋根を鉄骨で組み上げた戦前の国技館は大鉄傘と呼ばれていた.「寒去って伸びし西日の鉄傘下」これは季語もしかっり入った俳句になっている.次は春の草を詠んで一首「惜しきをぞ 見つらむ草や 名は知らじ 花や咲くらむ 摘みぞ置きしを」こちらは短歌である.春らしくぐっとくだけて粋に「瓶から燗して入れ あと皆飲み うまいこと酒が効いた 強く抱いてね と また言いぬ いい玉と寝て抱く 酔ったいきがけさ 床 いま海の波と荒れいて 心から甘美」誰が創ったか大変な労作ではある.
 最後に英語の回文はどうだろう.恥ずかしながらこちらは一つだけしか在庫がない.この世に初めて登場した人間は神様がお造りになったアダムである.しかし一人では寂しかろうと次に神様はイブを造られた.アダムにとって初めて会う女性である.イブの前に進み出て「私はアダムと申します.どうぞよろしく」と挨拶しなけらばならない.
 『MADAM  I'M ADAM』と.