60年前、東久留米に

「早稲田大学学徒錬成部・久留米道場」の史実を追う
 
 
風化して、いまはなんの痕跡もない。60年の歳月のなかに消えてしまったのである。だがしかし、それは昭和15年から終戦直前まで、ごく短い寿命ながら、確実に存在した。「早稲田大学学徒錬成部・久留米道場」−−−都の西北、早稲田の杜の、そのまた西北、東久留米の地に、戦時下の稲門人たちが残した足跡を、ここで振り返ってみたい


  
  久留米道場で、労作のあとの體操に励む
        早稲田高等学院の生徒

        
久留米道場の正門



   
 “神殿風の建物”と講堂、寮

西武・新宿線は戦前、村山線と呼ばれていたが、花小金井駅と小平駅の間には、もう一つ、東小平駅があった。いまの公立昭和病院から300メ−トル西に位置していたという。「早稲田大学練成部・久留米道場」に向かう学生たちは、この駅で下車、2キロ北へ歩いた。
  東小平駅は昭和15年に開設され戦後、廃駅になっている。この駅は、久留米道場の建設が昭和15年秋に始まり、昭和16年5月実際の錬成が開始されるのを見つめ、さらには昭和20年5月戦争の激化とともに錬成成実施が不可能となり錬成部が解散するのを静かに黙って見届け、この駅もまた消えていったのである。 

 
 
  初め、早稲田は勘違いして、この道場を「小平錬成道場」と名付けた。多分、道場にゆくのに東小平駅で降り、小平村の天神、大沼の集落を抜けて久留米に入ることからの錯覚であろう。しかしほどなく改称されて「久留米道場」となった。
  東京府北多摩郡久留米村前沢字泉久保(都制導入は昭和18年)が当時の道場所在地。現在の東久留米市滝山4丁目、市立滝山小学校を中心としたエリアである。
  早稲田大学が昭和18年4月出版した「学徒錬成」のなかに次のような道場紹介の一節がある。「幾度か萬葉歌人に歌われ、また近くは文豪独歩、蘆花等にこの上もなく愛でられた武蔵野、しかも狭山丘陵は指呼の間、多摩の清流また必ずしも遠からざる略ぼ武蔵野の中心、ここ久留米村の一角、翠の松林を背景として、雑木林に取り囲まれた聖域に、見るからに清浄な感じのする神殿風の建物が建ってゐる。これこそ早稲田大学学徒錬成部の教職員が若き学徒と日夜寝食を共にし文字通り倶学倶進の錬成を行ふ久留米道場である。・・・・・」
 「東小平駅から物の十分も歩かない中に、久留米道場の国旗が木の間隠れに見えて来る。すでにして道場につくと武蔵野を流れる一条の清流があり、自然木を欄干にした小さな橋が懸ってゐる。この橋の辺りで隊伍を整へ、服装を正して先頭の班長の「歩調トレ」の号令一下、道場前の砂利道をザクザクと踏んで、玄関前に到着する。ふと玄関を見上げれば正面に『浄心』の額が掛かっている。総長自ら筆を執られて久留米道場の為にその本領を示されたものである。道場の域内に入ると、白木造りの神殿風の建物とそれを取繞る緑の林とは、自からにして浄域たることを感じせしめる・・・・」
 「神殿風の建物」というのは中庭を囲んだ講堂(56坪)、寮(166坪)、事務所(50坪)、食堂(55坪)、廊下と門(76坪)などを指す。敷地は当初約9千坪だったが、その後、勤労耕作用地として隣接地を数度にわたって買い増しし最終的には2万5千坪余り(約8万2650平方メ−トル)を確保した。
 
道場の定員は200名、第一、第二高等学院、専門部、高等師範部(いずれも旧制)などの学生がクラス毎に輪番で道場入りし、月曜から金曜までの4泊5日の錬成体験を行った。


昭和31年上空から撮影、付近一帯は畑ばかり
右隅に小金井街道が白く
下端に拡幅前の新青梅街道

久留米道場の日課表



 
 ところで早稲田大学が学徒錬成事業に乗り出したのは、どうような理由からだろうか。
 
当時、国家総動員体制が強化されつつあったなか、田中瑞穂総長が欧米と比較してわが国の青年の体位低下が目立ち、しかも日本の教育に最も欠けているのが体育であることを痛感したのが起点となった。それが昭和15年秋、他の大学に率先して、「学徒錬成部」を設置、田中総長自ら同部長を兼務することになったのだ。総長自身、学徒錬成部設置の趣旨をこう説明している。「支那事変三周年を迎えて、聊か教育界の陳勝呉広(先駆けとなって)を以って任ずる意図に出でたものであって・・・・わが邦の現代が最も痛切に要求するのは、道議の人実用の人であることは明らかであるが、兎角此の要求に合し難き憾ある所以のものは、畢竟教育上理論と実践とが分離して別々に取扱われ、知を体得し知に徹底せざるためであって、・・・其の欠点を補充する所のものは即ち練成部の新設を措いて他になしと考えた」((早稲田大学百年史)
 
平たくいえば、現代の若ものもそうだが、当時の学生も頭でっかちで体力的、人間的に基礎的なものを身につけていない者が多く、「正しい箸の執り方も知らずに正しい下駄の脱ぎ方を知らない学生、幣衣破帽蓬髪を以って自ら高しとし放歌高吟し側らに人無きが如き態度を以て東洋風の豪傑たりと錯覚せる学生が如何にして大東亜の指導者足り得るであろうか。(「学徒錬成」)といった大学側の危機感があったようだ。錬成のための道場は久留米を中心として、他に東伏見、戸塚、戸山、甘泉園にも設けている。
 
もっとも学徒練成部の設置については学内で、すでに軍事教練が学生に課されているのにその上にまた練成とは、といったリベラル派の反対も強かった。戦後編纂された「早稲田大学百年史」には、この学徒練成部は「戦時下の徒花」として記述されている。 錬成は毎朝5時半の起床でスタ−ト。神拝、国旗掲揚、体操のあと朝食、正午まで世界観や錬成教育原理、建学精神などの座学がある。「一、容姿は端正にして毅然たる態度を持すべし」「一、服装は質素清潔にして整然たるべし」などといった「学生十戒」をたたき込まれるのもこの時間だ。午後は木の伐採、堆肥づくり、肥汲みなどの労作や体操、夕方から夜には国旗降納、入浴、夕食、研究座談会とつづき午後9時半、点呼、就寝で一日が終わる。調理、食事のあと片付け、道場内全体の清掃など、生活に必要な課題はいっさい学生自身が行った。

 「労作は辛いと思うのも束の間、すぐに休憩になって思う存分体を休めると、初めて経験する快さを感じた」という専門部学生、当稲門会の会員で昭和18年6月末、錬成を体験した竹村銕郎さん(昭和23年商)は、最近60年前を回想して「玉川上水沿いに多摩湖まで行軍したり、道場の早朝、近所の梨園の鶏の鳴く声を聞いたといった記憶があります。特別辛いとか、いやだったという思い出はまったくありませんね」と話している。


労作業は木の伐採や根起こしなど

食事前に全員が合掌


 
 道場を受け入れた側の久留米村は、当時、人口6千人強。戸数数千軒前後。この村の生え抜きの老いた畳職人が、昭和10年代をこんなふうに述懐したことがある。
 
「府中の親方のところに奉公に出て、久留米に帰って独立したんじゃが、まるで仕事がなかった。あのころの村の貧しさはひどくてな、畳のある家がめったになかった。みんなムシロか蒲(がま)を敷いてたんだ。仕事が出るようになったのは団地ができてからだよ」
 
多摩全体が、いや全国が似たような苦しい暮らしだったのだ。そんななかだから久留米道場が“神殿風の建物”のように見えたのである。久留米道場は村に屹立する存在だったのだろう。60年の歳月が経過したいま、地元で当時の道場を追憶する人もいないが、当時はいろんな声があったろう。 
 昭和20年3月久留米道場の一部は軍が接収。すでにこのころには学生の召集、工場への勤労動員がひどくなり、錬成する学生そのものがいなくなった。学徒錬成部は同年4月末廃止が決まった。
 戦後、道場敷地は自作農特措法で一部を手放し、残りは食品会社などへ売却。建物は解体して第一高等学校に移築した。前出の竹村さんは昭和43年に東久留米市に居を構え、46年に有刺鉄線で囲まれた久留米道場跡を訪ねて国旗掲揚台など、またかすかに残っていた“つわものどもの夢の跡”を写真撮影した。それもほどなく撤去され、いまはいっさい跡形なく、道場は歴史の彼方に消え去っている。(了)

(東久留米稲門会・会報「杜の西北」第9号
(平成15年3月発行)から転載したものである。
執筆者は当会顧問の國米家己三氏)