電子版

第53号
早稲田大学東久留米稲門会
  
   平成22年7月10日発行
   発行責任者  平山 正徑
   編集責任者  大島 勝典

   e-mail : w_higashikurume@nifty.com
    http://homepage2.nifty.com/35292/



会の告知板
  7月21日(水)   お誕生会      17:30〜  東久留米「やる気茶屋」
  7月31日(土)   カラオケを楽しむ会 18:00〜   「オンチッチ」
  8月 1日(日)   役員会       13:00〜  生涯学習センター
  8月18日(水)   お誕生会      17:30〜  東久留米「やる気茶屋」
  9月 2日(木)   映画鑑賞会「シャレード」14:00〜  成美教育文化会館 
  9月23日(木)   ウォーキングを楽しむ会 9:00   東久留米駅改札前


[大学・校友会関係]
 ○6月15日(火) 白井総長が2期8年の任期を終え(10月)新総長の選挙が行われた。その結果法学部の鎌田薫教授が社会科学部の小山慶太教授を上回り新たに総長に就任することが決まった。
 ○7月10日(土) 早稲田大学校友会支部長会、商議員会 平山、菱山、安次峰
 ○8月27日(金) 三多摩会長会 大隈記念会館 平山、安次峰、高橋、森田、渡辺
 ○9月17日(金) 早稲田大学秋季代議員会 大隈講堂 安次峰、高橋、山岡
 ○10月17日(日)稲門祭・ホームカミングデイ 例年通り記念品付き福引券60枚
        の割り当てがあり藍原、渡辺稲門祭実行委員による販売が行われている。
 ○11月21日(日)東京三多摩支部大会、講演会(奥島元総長)が法学部8号館で、
     懇親会をガーデンハウスにて開催予定。


部会たより
 

 映画鑑賞会  「地上より永遠に」
 上映当日は梅雨の晴れ間で、湿気も無く絶好な外出日和でした。映画鑑賞会も30回目を迎えましたが、記念すべき回としてもっと女性に親しみのあるシャレた華やかな作品を選べば良かったと動員が心配で後悔していましたが、以外に客足が早く、しかも危ぶまれた女性客も多く、文句なしの満員御礼でした。DMハガキとチラシの配布枚数が適切だったのでしょう。担当の松崎先輩は理工出身ですがADマンとして勘ピューターも冴えています。又、平山会長自ら空席を探し案内するなど、パリの一流映画館並みのサービスぶりでした。(パリの映画館はキュートな案内嬢に1〜2フラン渡すのと違いますが)この映画鑑賞会は当会の皆さんの協力を得て、地域の良質なブランド品として成長したのだなーと感じています。
 私がこの作品を観たのは中学3年の暮れで、この年(昭和28年)から年間100本以上の映画を観ることになりました。原作はジェームス・ジョーンズのベストセラー小説の映画化ですが、当時は原作、監督などは眼中になく、ひたすら好きな俳優出演するのが中心で観ていました。
モゴメリー・クリフト「陽の当たる場所」、デボラ・カー「黒水仙」「クオヴァデス」がお気に入りでした。
57年前に観たこの映画に印象は、いかに自由な国アメリカでもこの当時ではマッカーシー旋風(赤狩り)でハリウッドは揺れ、大荒れな時期でしたが、アメリカの恥部をさらけだすような映画をよくぞ撮ったものだと感心しました。
戦前、戦後の名作と云われたジョン・フォードの「怒りの葡萄」「タバコ・ロード}(アメリカの貧国)、エリア・カザンの「紳士協定」(ユダヤ人迫害)も20年以上経って封切りされました。同じカザンの「ピンキー」(黒人蔑視)は未封切りで、やっと最近WOWOWで観ました。そのエリア・カザンが、こともあろうに[赤狩り]の渦中の人となり、昔の仲間(共産党員)の名を密告し、彼等はハリウッドを追放され自殺者まで出しました。カザンはその後「エデンの東」など名作を撮るのですが、その汚名は生涯消えず淋しい晩年を送りました。人生の栄光と失墜を感じさせます。
 次回は9月2日(木)午後2時00分から「シャレード」(オードリ・ヘップバーン主演)を予定しています。
  (米光慶二郎記)



  女性サークル

爽やかな女性サークルの面々

緑の美しい芝から眺めた細川邸


 梅雨時の晴れ間がのぞいて暑くなった6月17日(木)、女性9名で、新江戸川公園と永青文庫を訪れました。有楽町線江戸川橋駅より徒歩15分、早稲田大学の近くにある新江戸川公園は、幕末に造られた熊本藩細川家の回遊式泉水庭園で、昭和34年に都立公園となり、後に文京区に移管された区立の公園です。
公園は、目白台の地形を利用して造られ、池を一周するように園路がめぐらされていて、木々の深い緑の中にさつきの赤と紫陽花の紫が印象的でした。入口の反対側は高台になっていて登っていくと永青文庫がありました。細川家の屋敷内に事務所として建てられた洋館をそのまま使用したそうで、思ったより小さな建物でした。訪れた時は、「細川家の明治・大正展」が開催されていて、細川家の人々の写真や横山大観などの日本画の大家の絵画、中国の古代の文物や書などが展示されていました。さすが、細川家の所蔵品という品々でした。
永青文庫の見学が終わってから、参加者の榎本さんの案内で文庫の近くにある細川邸を見に行きました。緑の美しい芝から眺めた細川邸は、立派な洋館でした。今は住居としては使用しておらず部屋を貸し出しているそうです。
その後、近くのリーガロイヤルホテルでランチをいただきました。その日のメインは、魚料理で、その他はブッフェ形式だったので色々な料理や飲み物を好きなだけ食べ、おしゃべりとともに楽しい時間でした。
食事の後、有志で大隈庭園、さらに演劇博物館へと足を延ばし、学生時代を思い出しました。
  (吉川明美記)


   
ゴルフ部会

 これまで2勝9敗と屈辱的対戦成績が残ってしまっている早慶懇親コンペ。第12回目が好天に恵まれた6月4日、お決まりのコース玉村ゴルフ場で開催されました。今回は稲門会が新人2名を加えて参加者10名を集め、三田会の6名を数の上で初めて凌駕したコンペでした。総合順位は初参加の稲門会、岩崎俊彦・池田信一がワンツーフィニシュ。稲門会は、更に4位に大田晴之助が入り、上條忠が5位に続きました。上位4名NET合計で争う対抗戦は、稲門会がこの4名合計NET292.0.3位、8位、9位、12位を取った三田会の合計NETが301.8と9.8ポイントの大差をつけて稲門会の圧勝となり、対戦成績も3勝9敗と、幾分戻せました。然しまだ前途多難。各位の研鑽を期待するとともに新人の加入を歓迎いたします。
    (藍原昌義記)




内に秘めた打倒三田会の思いが顔に出ているようです


  囲碁部会

 第10回「オール早稲田囲碁祭(首都圏)」が6月5日(土)10時より日本棋院市ヶ谷本院にて行われた。
当部会からは例年通り団体戦2チーム(1チーム5名)個人戦1名、計11名が参加した。Aチームは最高レベルのA組に所属し、戦績は8チーム中4位に入賞した。Bチームは、Fクラスに所属し戦績は8チーム中2位と大健闘した。個人戦は惜しくも入賞を逸した。所属クラスは異なるが、Bチームが順位でAチームを上回ったのは恐らく初めてではないかと思う。これも快挙である。
大会全体の規模は、団体戦A〜Fクラス240名、これに個人戦がプラスされ260〜270名になった模様である。会の運営も手慣れたもので、随所で時間の短縮がはかられた。
会終了後、近くの私学会館でアルコール付きの反省会を行った。当日は晴天に恵まれ、
冷たいビールが心地よい疲れを癒した。散会は6時過ぎとなった。
             (辰巳徳蔵記)


 
東京六大学・早慶戦観戦

 
5月29日、私にとっては早稲田を卒業してから初めての神宮球場、実に40年ぶりである。この度は早慶優勝をかけての、そしてハンカチ王子・われらの斎藤祐樹君の最終年のゲームである。いやが上にもハイテンション。
東久留米
稲門会の観戦軍団は10時45分に勢揃い。なんと11名、史上最多人数である。13時の試合開始には十分余裕あり、帆角さんはじめ観戦慣れの諸先輩方は球場到着し内野席のよいところに陣取る算段である(1100円のチケット代)。着席後腹ごしらえをして気合を入れての応援と段取りは万全である。
12時神宮球場到着・・・なんじゃこりゃ・・・ヒト、人、ひと、かきわけ、かきわけしてチケット売り場へ・・・何とナント目指す内野席は完売ですと・・・レ、レ、レー・・どうする・・・残っているチケットは外野の学生応援席・・しかも最上段の椅子もない立見席のみ。がーん!帰るか・・・我慢か・・・仕方なく外野、最上段立見席を求める。試合開始・・・見えるものは、前の人の頭、背中のみ。早慶戦観戦のベテラン諸氏もこの混雑は予想外のようでした。混雑はいやだけど早慶戦万歳です。ところがここで引き下がらないのが観戦名人です。流石でした。村野さんをはじめとする突撃隊が特別内野席へ侵入、最終的にはゲームの中盤までには、何と全員着席。学生応援席(500円)の出費でちゃーんと内野席にすわってしまった。
ゲームは熱烈応援のもかかわらず、また斎藤祐樹投手のねばりの投球もむくわれず。1-2で惜敗でした。打ち上げの東久留米鮮乃庄では応武監督がコテンパンにやられておりました。全く元気な方たちばかりです。
     (渡辺真司記)



優勝決定戦!超満員の中、内野席を仕留め観戦も惜敗とは


  散策山歩き会
好天の下、山里六道山公園にて

 狭山丘陵「六道山公園」ハイキング6月6日(日)快晴の行楽日和、一行13名所沢経由、東大和駅で下車、バスにて「武蔵村山市役所」へ、バス停より歩き出し「都立六道山公園」へ。頂上、見晴らし台付近で昼食をとる。帰りは所沢で反省会。素晴らしい一日であった。
       (安次峰暁記)


  グルメ部会

六本木とは思えぬ和の空間でイタリアンを満喫
  六本木グルメと言うテーマに誘われて
 6月10日(木)午後に9名の方が第18回グルメ会に参加した。店の名前は"L−RISTORANTE"と言い「古風なお屋敷と広い庭が生み出すくつろぎの和の空間」のうたい文句の通りで、会食は野外のテーブル席で木立の中の木漏れ日の下で、のんびり味わう事ができた。料理はイタリアン本格素材コースで、いかにも手をかけて作ったと思われる料理が色彩豊かな陶器に盛り付けて出され、大変美味しかった。お酒も進むほどに、ここが六本木とは思われないような緑の庭の中で会話も弾み、至福のひとときを過ごす事ができた。
 会食後、新国立美術館へ行き、「第38回日本の書展」に平山さんの出品作が展示されていると云うので見学して帰途についた。
               (森田隆記)



  お誕生会

5月は高柳さん米光さん

6月は本間さん比護さん

 7月のお誕生会は21日(水)17:30〜やるき茶屋で行います。
7月生まれの方は矢部不三雄、清水正弘、塚越崇、渡辺真司、岩崎俊彦、松崎勉、菱山房子、太田晴之助、山口道成、荒川正行、神田尚計の各氏。
 8月のお誕生会は8月18日(水)17:30〜やるき茶屋で行います。8月生まれの方吉田利宏、井坂宏、吉田清郎、平井功、村上雅敏、弘法堂俊雄、末松毅、池田信一、国米家己三、船津高志、久家政裕、片岡洋の各氏。


  
俳句部会
平成22年5月16日(日)  第119回句会  
 兼題   「花菖蒲」、「祭り」 
     高得点句

橋くぐる嫁入り舟や花菖蒲  藤田 貞夫 花菖蒲
薄暮にもそこだけ暮れず白菖蒲   安宅 武一
神仙に巫女佇むや花菖蒲  大久保 泰司
牛車より零るる裳裾賀茂祭り   川俣 栄一
乙女らのねじり鉢巻祭笛    河村 洋子
糸とんぼ風の隙間へ失せにけり    松田 博雄


平成22年6月20日(日) 第120回句会 
 兼題:「父の日」、「蛍」
 高得点句
尾根よりの風が梳き行く夏野かな    三田 三(畔巣) ほたるイラスト画像
父の日や変哲もなくひと日過ぐ     神田 尚計
掌から掌へ蛍囲ひし夜は遠く      神田 尚計
風にのりつばめ天平瓦越ゆ   市川 英雄
俎板を削り直して夏迎ふ      神田 尚計


  芸術鑑賞会
 小雨模様の6月4日13名の方々と「デビュー35周年千住真理子ヴァイオリン・リサイタル」を鑑賞しました。
 この日世界の幻の名器といわれているストラディヴァリウス(デュランティ)の音色も聴きたいと参加される方もおられました。その伸びやかな響き 細い音さえ厚みを感じる音色に聴き惚れました。
千住さんは35年のヴァイオリニストの年月に触れられました。当時小平に在住の国際的名ヴァイオリニスト江藤俊哉氏に師事され奇しくも同ホールでレッスンを受けられた時のこと、無言で長時間後ろを向いたまま聴かれ、そのレッスンは朝から夕遅くまで終日に及ぶ熱心さであったと話され、年月を重ねた演奏をいっそうしみじみ聴きました。
後日参加された当会員佐渡在住の納見明徳さんから"楽しかった有難う"のお手紙をいただき自宅の庭園に見事に咲き乱れるバラの写真が添えられていました。
担当者としては本当に嬉しく次回はもっとよい企画で会員の皆さんにご案内したいと思っております。この日のプログラム全10曲、皆親しみのある曲でした。
曲目は1.パッヘルベル:カノン 2.ヴィ ターリ:シャコンヌ 3.フランク:ヴァイオリン・ソナタ 4.ショパン:夜想曲第2番 5.ラフマニノフ:パガニーニの主題による狂詩曲より第18変奏 6.ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌ 7.ロシア民謡:黒い瞳 8.ドビュッシー:月の光 9.アイルランド民謡:ロンドンデリーの歌 10.ブラームス:ハンガリー舞曲 第5番でした。
(菱山房子)





第16回 文化講演会要旨
「白洲正子の素顔」
講師 松井 信義氏    (昭43 政経卒)
     (暮らしのうつわ 花田 店主)



総会当日の講演会風景

 4月18日(日)午後2時から成美教育文化会館 1階ギャラリーで、第16回定時総会に先駆けて「第16回文化講演会」が開催されました。
「白洲正子の素顔」の話に入る前に、松井氏の生い立ち、「暮らしのうつわ 花田」を始めるに至った経緯を話され、その延長線上に白洲正子さんとの"出会い"から"付き合い"へと至ったことを、エピソードを交えて講演されました。

  
1 "生い立ち"から"暮らしのうつわ 花田"開店まで
 昭和20年、満州で生まれ、翌21年、日本に引き揚げ、2〜3年、母の郷里の京都で暮らした後、父の郷里の石川県七尾市で小学校に上がるまで暮らしました。
早稲田大学政治経済学部卒業後、会社勤めを経て、アメリカに留学するが、1年足らずで父の急死の為帰国、父が経営していた建築会社を継いだが、建築のプロでないと経営できないことを知り、2〜3年かけて会社を閉じました。
 その後、自分の人生のことをいろいろ模索し、起業を思いつきました。美術に関係する仕事がしたいと思っているうちに"うつわ""食器"に着目致しました。
作者を募って、一つ一つ手作りのものをやろうと、同好の士を10名ほど得まして、昭和52年、32歳のときに今の九段坂上の地に「花田」という店を開きました。


2 白洲正子との"出会い"から"付き合い"に至るまで
店を開くと言っても焼き物には素人ですから、いろいろ勉強しているときに読売新聞社のムック版で骨董の特集がありました。そこに古美術評論家の秦秀雄さんと白洲さんが、骨董や骨董界についての対談が載っていました。 それを何回も読んでいるうちに、どうしてもこの二人に会ってみたいと思うようになりました。
  竹橋の国立近代美術館の工芸館の展覧会で、黒田乾吉さん(木工家で人間国宝の黒田辰秋氏の子息)から「この男は今度九段でうつわの店、工芸の店をやる松井という者です。」と紹介されました。
 白洲さんは「あッ、そう。よろしく」と言って横を向いている。そっけないと言うか愛想がないと言うような出会いでしたが、「あッ、そう。」と言ったときに僕の目を見たときのその目の鋭さは、それまで経験したことがないもので、射すくような私の奥底まで見透かすような視線でした。戦慄を覚えたくらいです。刺激の強い視線でしたが、その魅力と言うか何か独特のものを感じました。「これは、普通のオバアサンじゃぁないぞ」 これが白洲さんとの出会いでした。
  白洲さんとお付き合いするには、白洲さんを振り向かせる魅力なり武器がこちらになければなりません。しかし、私には何もない。
  話は飛びますが、私の父の郷里、石川県七尾市は海の幸の実に豊かな所なんです。特に冬場、厳寒の頃のタラやブリ、ナマコ、ナマコから作るコノワタ、ナマコの卵巣から作る日本三大珍味のひとつと言われているホシククチコ(干口子)、それに牡蠣・・・・。
 「白洲さん、タラの刺身食べた事ありますか」「エツ、タラ刺身で食べんの」「そうなんですよ。タラって言うのは獲り立てが一番おいしい。」
 実は、その前年、黒田乾吉さんと数名の友人を七尾に招いていたんですが、黒田さんがこの話を一生懸命応援してくれるんです。そしたら「あたし、行きたい。」と。
  和倉駅(現、和倉温泉駅)に屈強な男3人を従えて、プラットホームに立っている姿は、いま、こうして目をつぶっても思い出すほどです。
  白洲さんは著作に「私は美味しいものを求める為には、千里の道も遠しとしない。」と書いていらっしゃいますが、彼女の姿を見るまでは半信半疑だったんです。
  タラの刺身から始まって、鍋をしたり、貝を焼いたりとかいろんな工夫をして、食べる、飲む、話すの2泊3日でした。
 「松井さん、アンタ幾つまでここにいたんだい?」と聞いたんで、「僕は7歳まで、3歳から小学校に上がるまでの4年くらいここに居ました。幼稚園はここなんですよ。」「あッ、そう。人間の味覚形成期にこんなうまいもん食われちゃかなわないよ。」とこう言われたんです。
 あッ、俺を認めたな。私にも白洲さんに認めさせる何かがあったんだ。と思いました。
 東京へ戻って来て、暫くして白洲さんから電話がありました。 
「私、困ったことになったのよ。」「どうして?」「銀座のすしがなまぐさくてたべられないのよ。」 私への最大の賛辞だと思いました。
  私の店がある九段と言うのは場所的には、白洲さんが一番本を出していた新潮社がそばで、平凡社が当時は三番町にあり、小学館だとか集英社、講談社など比較的出版社の多い所で、白洲さん原稿を書き上げると、うちへ持ってきて、編集と待ち合わせ原稿を渡すということで、利用することがありました。
 原稿を渡し終わると、「松井さん、ご飯はどうする?」と独特のイントネーションで言われるんです。 それで、うなぎの「竹葉亭」、トンカツの「ぽん多」・・・
 その度に、美術館へ行ったり、お能を見たり、骨董屋へ行くのが一番多かったんですが、そのあとで、食事をして、お酒を飲んで、いろんな話をするという繰り返しでした。


3 白洲正子と骨董
  白洲さんが最初僕に言われたことがあるんです。「焼き物をやるんだったら、骨董やらなきゃぁダメだよ」と。 それで、私は何としても骨董のことを少しでも自分のものにしたいと思っていました。 骨董と言う古いものを見る、古典を見ると言うことは基本なんです。 しかし、骨董と言うのはいろんなものがありますし、なかなか思うようには成長しないんです。
 そんな私に最初は「うまいものが判るっていうのはね、骨董が判るっていうことになるんだから、そのうち何とかなるよ。」って言って慰めてくれました。
  白洲さんや私の友人(青柳恵介氏とか杉本博司氏など)から骨董のことをいろいろ教わり、あるとき一善堂と言う骨董屋で買った経塚壺を白洲さんに見せたとき「おめでとう!」と言われました。 そこで初めて一つ階段を上がれたなぁという気がしました。
  白洲さんと骨董屋へ行くわけですが、{壺中居(こちゅうきょ)、瀬津雅陶堂(せつがとうどう)、吉平(きっぺい)・・}、白洲さんは気に入ったものがあると「買った!」「ア、これ買った!」とやっちゃうんです。
 吉平に行ってグイノミを見せられているとき、いろいろ見せられても全然反応しなかったんですが、最後の方に見せられた6センチくらいの四角い筒のものが出てきたとき、「これ、古染めじゃぁないの?いい!これ買った!」と言ってから「幾ら?」「150です。」「ああ、いいわ。買ったわよ。」と。 そのとき私には何でいいのか解らなかったので、翌日、吉平に電話をかけて聞いたんです。
 「吉平さん、何で白洲さんあそこまで褒めるの?」「ああいうものは、全て知り尽くした人が最後にたどり着くようなものなんです。」
 兎に角、ものに対する直感の鋭さ、潔さ、スピード、早さ、いちいち考えない。ものを見る目、見抜く目と言うのは独特なものがあったと思います。ものへの執着心と言うか、美しいものは自分のものだと一体化してしまうんでしょう。
 また、白洲さんは骨董をただ"もの"と言うだけではなく、人との関わりと言うことを非常に大事にされていました。 「骨董の力、実力って言うのは、買ったときじゃぁなくて、売ったときに判る。売ったときの値段が下がっているようじゃぁ大したことないよ。」 更に、「形には必ず魂がある。いいものには必ずそれだけのものを感ずる、感動とういうものがある。」  白洲さんが亡くなる年に、一番大きな買い物をするんです。
 粉引(こひき)の徳利なんですが、かなりのものだろうと思います。その為に殆どの自分の持っているものを売って、それで買えて、自分のものにしました。


4 白洲正子とお能
  白洲さんの中心はお能なんです。3歳か4歳からお能の手ほどきを受け、女性で初めて禁を破って能舞台に立ったのは彼女が初めてなんです。-
 梅若實とか梅若六郎、喜多六平太などの名人の能を十二分に見たので、今の能は、見たくないと思っていらした。ところが、喜多流の友枝喜久夫さんの能を紹介され、見て、追っかけまでやりだしたんです。夢中になられました。友枝さんは目が不自由で能舞台を止められた後、仕舞の会を開くようになりました。
 友枝さんが"禁じ手"をどこで出すかを楽しまれていました。


5 白洲正子の育った環境・エピソード   
  自伝にも書かれていますが、過去は勝手に付いてくるものと言うことで、過去はどうでもよいという考えのようでした。
 たとえば、食事をして話をしているときでも、現象とか傾向とかの話をすると、「あんた、現象とか傾向の話はやめてくれよ。あんた、今何しているんだ。」と。 未来でもなければ過去でもない、今、現在を如何に生き抜くかと言うことに専念していた。
  白洲さんは良くお祖父さんのことを書いています。お祖父さんと言うのは、樺山資紀(かばやますけのり)さんと言われ海軍の元帥をなさった方なんですけど、津本陽氏の「薩南示現流」に書かれている橋口覚之進という気性のはげしい若侍が何を隠そう私の祖父の若き日の姿である。と自伝に書いています。
 そういうお祖父さんに育てられた。自伝の中では、お母さんのことは何もなく、お父さんとお祖父ちゃんのこと、特にお祖父ちゃんの話は良くしています。
  白洲さんは鶴川に住んでいらしたわけですが、雨に日、鶴川の駅にはタクシーがなかなか来ない。
 ズラーッと並んでタクシーが戻って来るのを待つわけです。あるとき、娘さんと二人で待っているとき、学ランを着たどっかの応援団みたいな学生がやって来て、列を乱して前に入っちゃたわけです。そしたら、白洲正子がこうもり傘の把手で首をギューッと引っ張るわけです。娘さんは生きた心地がしなかったそうです。その気配に押されて、学生はスゴスゴと列の最後に並んだそうです。やっぱり侍なんです。  最後に一つ。
 「人間は幸せになる義務がある。」と言っているんです。人間は幸せになる権利があるとか言いますが、彼女は「義務がある。」と。状況とか他人の所為にするな。自分の幸せは自分で築いて行くんだ、と言うことを良く言ってらっしゃいました。
 それからときどき「全て挙句の果ては、個人だよ。」って言ってらした。結局、個人と言うのは、自分自身を磨きあげる。自己として、自己を確立することなんだと言うことではないかと思います。
  今日は、取り留めのない話をしましたが、時間が来てしまったようですから、この辺にさせて戴きます。どうも失礼致しました。
(要約 鮎貝盛和)





 〈会員リレーエッセイ〉〜噴水広場〜


            最強の王者 “大学の虎”の思い出
                        神田 尚計(32政経)
 終戦から間もない昭和22年。信州の松本で、早稲田大学ボクシング部と松本拳闘クラブとの対抗戦が行われた。当時、私は松本の中学2年生の悪ガキであった。娯楽も殆ど無い頃のことで、友人数人を誘ってワクワクしながら観に行った。会場は松本城の広場である。城は今でこそ立派に再建修復され、広場も庭園として整備され、国宝らしい威容を誇っているが、当時は荒れ果てていて天守閣は傾き、広場は何もない原っぱであった。その広場の真ん中に野外リングが設けられ、観客は椅子も無く、立ち見という具合であった。
レフリーは、どこかで見たことがある地元のおじさんで、ジャッジも居らず、一人で勝敗の判定を下していた。試合は軽量級から始まったが、子供の眼で見ても松本勢の劣勢は覆うべくも無く歴然として、レベルは段違いであった。何しろ、松本のメンバーは殆どが地元の中小企業や商店の従業員で、練習時間も満足にとれないような状況だから、それも無理無いことであろう。
 それでも対戦は進められ、いよいよメインイベントである。早稲田は後藤秀夫という選手であった。精悍で逞しく、見るからに強そうだった。そして目を見張るような光景が眼前に展開された。同選手は遠慮したのか右手は殆ど使わず、ジャブというのか左を出すだけであるが、それでも松本の選手はとても歯が立たない。「世の中にこんな強い人が居るのか」という驚きを覚えた。結果は勿論、後藤選手の判定勝ちであったが、試合後は息も切らさず、全く平然としていた。もし本気でやっていたら、1ラウンドも持たなかったであろうと思われ、私とって、その名前と光景は永く忘れられないものとなった。
 それから数年後、私が早稲田大学へ入った時、後藤選手は既に卒業していたが、私にとって同窓の大先輩ということになったわけである。そして、後藤先輩が在学中、「大学の虎」といわれて畏怖され、全日本アマチュアボクシング選手権で優勝し、まさに無敵の王者として君臨していたこと、卒業後はスポーツニッポンの記者として活躍中であることなどを知った。
 今年4月の東久留米稲門会総会後の懇親会でのことである。初めてイベントに参加されたということで、後藤秀作さんという方が紹介された。
 大学時代はボクシング部に所属していたこと、秀作さんという名前であることを聞いてハッと64年前の松本でのあの試合でのシーンが思い出された。
 そこで秀作さんに「もしやお父さんは秀夫さんではありませんか」と聞いてみたら「そうです」との返事。そして父上は残念ながら既に他界されていることなどを語ってくれた。
 全く予想していなかった邂逅であった。秀作さんも背が高く、お父さんを彷彿させる精悍な風貌で、私には64年前の後藤選手に再会したような気がした。そして憧れの大先輩の子息と、同じ街に住んでいて、同窓の友として盃を交わすという奇遇に感慨を覚えた。
 今でこそボクシングは大変人気があり、日本人の世界チャンピオンも輩出し珍しくも無くなったが、昭和22年当時はテレビは勿論無く、ラジオもNHKだけで民放が無かった。
白井義男がダド・マリノを破って日本人で初の世界チャンピオンになったのが昭和27年のことだから、当時ボクシングは未だマイナーなスポーツであった。今振り返って、「もし、あの後藤選手が今いたら・・・」と残念でならない。
 私にとっては、あの後藤選手こそが日本の最強の王者であり、今でも私の心の中にあの日の勇姿がまざまざと生き続けているのである



 ご近所まいうー店紹介    「鰻のまこと」
 7月26日(月)は土用丑の日である。この頃になると美味い鰻を食したくなるのだが、最近適当な鰻屋がこの辺では見当たらない。
そこでひばりが丘駅大踏切を北へ2分程歩くと左側角に古めかしい小さな店が現れる。創業昭和3年「鰻のまこと」、南アルプスの伏流水で育った静岡吉田産の活鰻の蒲焼専門店は産地がしっかりしているのでごまかしが無い。定価は昭和51年以来据え置いていて1串 小が630円、中840円、大1050円、特大1260円で山椒と自慢のタレが付いている。作り置きが出来ないので土用の丑の日とか夕方は避けるのが賢明。
「鰻のまこと」ひばりが丘駅北口一番通り名店会 電話 042-424-8452



特大蒲焼2串(1串1260円)
  
こんなお店を夫婦で切り盛り


 東稲広報室
○訃報   5月  前沢   富永卓二氏(34年政経)
      謹んでご冥福をお祈り申し上げます。 
○今月は当会会員に平成21年度事業報告書、平成22年度会員名簿をお届けいたします。
○東稲ニュース53号を1962年〜81年卒の市内未入会校友276名にお届けいたします。
○平成22年度新たに6名の方が入会されました。

2010 稲門祭・HOMECOMINGDAY 10月17日(日)開催!
記念品(福引券付き)のご購入にご協力下さい。
(記念品 2000円コース扇子、バッグハンガー、折りたたみ傘 4000円コースネクタイ、スポーツマフラー 6000円コースウィンドブレーカー、ソムリエナイフ&ボトルキャップ 1万円コース会津塗小物入れ(校歌オルゴール付) 2万円コース白薩摩稲雀 高杯) お申し込みは藍原、渡辺稲門祭実行委員へ


 編集後記
●梅雨が季節の扉を開き、暑さがとびはねだした。全国版「早稲田学報」6月号にわが稲門会が掲載される。自然豊かな緑の街、会員の緊密な結束、地域への浸透をうたった。まぎれもなく私達の活動はめざましい。各部会は今も生き生きと一層の充実を運んでいる●政治も経済も低迷し、盛り上がりに欠ける参院選、それに相撲界の不祥事、世の中全体に閉塞感が漂っている。そんななか惜しくも初のベスト8はならなかったがワールドカップ、サッカー日本代表の健闘は見事だった。しかし、それより何より小惑星探査機「はやぶさ」が7年ぶりに帰還を果たしたことに大きな感動を覚えた。未知の世界を探る本物の科学だけが持つ迫力、数々の試練を乗り越えよくぞとたたえたい。落下したカプセルは無事回収された。この世界初の偉業はカプセルにたとえ岩石資料が入っていなくても、その価値は少しも揺るがない●7月の雨は炭酸水のように爽やかでやさしい。                                 (大島勝典)


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