科学技術はじめまして
    -現代科学技術-
坂本 信太郎  早稲田大学名誉教授 当会顧問 
  只今ご紹介いただきました坂本です。本日は東久留米稲門会創設1周年の記念の日であります。この記念の日に皆様にお話をする機会を得ましたことは、大変光栄の至りであります。

テ−マとして「科学技術はじめまして」を掲げましたが、副題の現代科学技術の意義と社会への影響を中心とした話をさせて頂こうと存じます。そして、皆さんの科学技術への理解と関心を一層深め、批判の目をより蜜にして頂ければ幸いの至りです。
 先ず、科学技術という言葉の意味について述べたいと思います。今日、もう皆様はこの言葉を日常茶飯事に大変気安く使用されておりますので、ここに改めてその意味につき申し上げるまでもないことと思いますが、現代の科学技術を理解頂くために大切なことですので、敢えて申し述べさせて頂きます。科学技術はあくまでも技術(Technology)が主体であります。科学(Science)とはいささか違うものであります。
 ここで、科学についてちょっと触れておきましょう。19世紀末から20世紀初めにかけて、マックス・プランクの量子論、アインシュタインの相対論が、次いでディラック等による量子力学、アインシュタイン、ミンコウスキ−による相対性力学という拡張された極めて革新的な新理論が創出されました。それは18世紀以来の科学思想の主流であったニュ−トンの体系を越える、新しい領域(Paradigm)を創り出すものでした。ニュ−トンの体系は、私達が生活している日常世界と、私達が知覚し得る程度のまあまあの速さの世界の事象を支配するものです。これに対し、新理論は、私達の知覚を越えた極微(Micro)の世界と、光の速さに近い超高速の世界を律するものです。その後、この二つの新理論に基づいて、原子理論、原子核理論、宇宙論、分子生物学等が急激な目覚しい発展を致しました。現在も、宇宙、物質、生命等の各分野に、これらの理論は力強い発展を導いております。しかし、創り出された当初に見られたような、華々しい進展は鉾を納め、現在は、専らこれらの理論の洗練と拡張に努力が注がれております。静かな成長期の状態にあります。
 さて、元に戻りまして、科学技術という言葉について見ることに致しましょう。この言葉の読み方には、科学・技術と間を置いて言う場合と、科学技術と続けて言う場合がありますが、区切って言う場合と連続して言う場合とでは、全く違った事柄を指すことになってしまいます。間を置いて言う科学・技術は、科学と技術、Science and Technologyです。ここでは、技術は、科学と対等の、並列の関係にある技術の革新的進展が、いつも私達の生活に大きく関係し、社会の在り方も、物の考え方、思考にまで影響を及ぼすものである普通の技術を示しています。職人や技能者、技術者の経験,勘、熟練に大きく依存した技術です。科学との関係は、時に応じて科学から助言・助力を得たり、科学の成果を借用して来る程度です。第一次産業革命以来、1940年代の第二次世界大戦中まで、技術の主流でした。この立場の技術は、現在では主流の座を退いていますが、勿論、まだ健在であります。もう一つの区切らずに続けて言う科学技術は、科学化された技術:Scientific Technologyを示しています。1930年代に英米で始まり、第二次大戦を通じて発展し、今日に至っております。技術革新(Innovation)を引き起こした技術です。現在、主流の座を占めている技術です。ここでは、技術は、科学の成果を時に応じて単に借用するのではなく、積極的に、合理的に取り入れてます。そればかりではなく、科学者と同じ手法をも取り込んでいます。両者が混然一体、区別し難いほど密接な姿を持ち、堅く融合したものになっております。つまり、単なる技術ではなく、科学の装いをした技術なのです。単なる技術と違った新しい型の技術が誕生したのです。このScientific Technologyがここでのテ−マであります。
 さて、この科学技術の特徴について考えてみましょう。第一は、只今申しましたように、科学と融合した新しい技術体系であることです。この体系は、最新鋭の科学理論に基づいて創出された技術なのです。あるいは、すでに知られていたのですが、今日まで忘れ去られていたり、見捨てられていて、ここに来て再発見された、目新しい原理に基づいて創出された技術なのです。従来の技術には見られない革新性がここから発しています。第二の特徴がここにあります。
 一般に、技術は次々と極めて緩慢に発展していきますが、革新的な科学技術に基づく発展は、極めて急激で飛躍的(不連続)な現れ方をします。これが特徴の第三番目です。こうした特徴を持った技術ですから、高品質、高性能、多機能な機械器具が作られ、従来は予想もできなかったようなことも、また到底不可能と思われていたようなことも、たやすく乗り越えられるようになりました。例えば、従来のプロペラ式航空機では容易でなかった音速の壁を、ジェットやロケットの飛行体は難なく飛び越え、さらに宇宙空間にまで飛び出すことを可能にしました。勿論、生産性も著しく増大され、大量生産もできるようになりました。そして、私達の前に新製品や新しい世界が次々ともたらされるようになったのです。一般に、技術の革新的進展が、いつも私達の生活に大きく関与し、社会の在り方や物の見方,思考にまで影響を及ぼすものであることは、歴史的事実として、皆様良くご存知の通りです。科学技術出現の場合はどうでありましょうか?科学技術が可能にした大量生産(少品種大量生産)の能力は、廉価で優秀な商品を市場に溢れさせました。その結果、誰もが一様に、たやすく製品を所有できるようになり、製品は大衆化され、物に対する人間の本質的な欲求(一次的欲求)はいとも簡単に満たされました。大変に素晴らしいことです。これは,科学がもたらした変化・影響の第一のものです。 ところが、このことは、同時に均一化された製品の、一様な所有に飽き足らず、自分の所有する製品の独自性を強調し、より個性的であることを欲する新しい欲求(二次的欲求)を引き出させました。例えば、色であるとか、スタイル、デザイン等と言った情緒的な、情感的な面での独自性を求めるようになったのです。今や、人々の欲求は形ある物で作られていた実用的価値等、形のない情報的価値を重視するようになったのです。価値観の転換が誘発されました。ハ−ド・テクノロジ−一点張りの従来技術と並んで、形なき情報を形あるものにする(顕在化させる)ソフト・テクノロジ−を重要な新技術として登場させることになったのです。現代社会を特徴づけている情報化の社会、あるいは脱工業化の社会の出現です。これがもたらされた変化・影響の第二です。科学技術はTVやコンピュ−タ等の高速度、高性能な色々な情報用機器,通信伝達機器や情報処理機器を作り出しました。なかでも、TVとコンピュ−タの出現は大変重要なことでありました。これらがもたらす影響も非常に大きなものでした。
 先ず、今や必需品として各家庭に深く浸透しているTVの影響を考えてみましょう。結論を先に申しますと、「理性の時代から、感覚の時代へ」と、私達の意識や思惟の作り方を変えてしまったということです。これが変化・影響の第三です。私達の意識や思惟は日常の見聞や経験・教示等の情報によって形成されます。そのための情報は、TV出現以前では、新聞、書籍雑誌、講演、ラジオ等によっていました。これらからの情報に共通した特徴は、一次元導入、つまり情報がひとつひとつ順を追って入ってくることです。これらが意味ある情報かどうか知らなければなりません。これは、これらの間に因果関係が成立するかどうかにあります。そして、これはいちいち論理的に試して見なければなりません。因果関係が成立する時、意味のある情報として受け取られ、私達は、そこから意識・思惟の形成に至ります。こうした過程を経て、私達の意識・思惟は作られます。ですから、誰にとっても、論理はなくてはならない大切なものでした。論理的思考は尊重されました。
 ところで、TVからの情報伝達は大変に違います。多数の情報が一挙にやってくる多次元的導入です。私達は情報を全体として受け入れ、集団的なパタ−ン認識ができるようになったのです。もはや、論理によってひとつひとつを結び付ける必要がなくなり、一見しただけで、全てを理解できるようになったのです。ここでは、感覚の働きが主役の座を占めることになります。活字離れや漫画・劇画の流行に見られるように、論理の重要性は後退し、代わって、感覚が重要性を占めることになったのです。理性は脇に除けられ、フィ−リングやム−ド等の感情のみに流される行為・行動が多く見られるようになったことは、いささか心配で、残念なことと思います。
 さて、最近、頻繁に見たり、聞いたりする文字や言葉はマルチメディアであり、インタ−ネットでしょう。どちらもコンピュ−タにかかわるもので、今や流行語です。そこで今度は、マルチメディア・インタ−ネットについて考えることにしましょう。
 先ず、コンピュ−タの変遷を辿ってみしょう。コンピュ−タは文字通り、計算機として出発しました。最初の計算機は17世紀にパスカル(仏)が作った歯車使用の機械的計算機です。それ以来、迅速正確な計算機が求め続けられ、機械式メカニズムから電気式のものに進展しました。1944年に電磁使用の電気リレ−式の計算式が、次いで真空管の高速度なスイッチングを利用した、いわゆる第1世代のコンピュ−タ、真空管式電子計算機が開発されました。1948年にトランジスタが発明されますと、60年代にはプログラムを内蔵した第2世代のトランジスタ式コンピュ−タが、70年代には集積回路、IC使用の第三世代、続いて、大規模集積回路、LSI使用の弟3.5世代に進み、80年代初めになって、現在の超LSI使用の第4世代に至ったのです。同じ時期、マイクロ・コンピュ−タ式のパソコンをIBMが製作しました。
 ところで、当初のコンピュ−タは、いずれにしても大変複雑で、大型かつ高価でした。そればかりではありません。人間が日常使用している言葉、自然の言葉とは非常にかけ離れた、プログラム言語と言われる特殊な言語を使用しなければ、コンピュ−タは動きません。コボルとかオ−トラン、あるいはアルゴ−ル、ベ−シックと言った、人工的言語で操作命令を与えなければ、コンピュ−タは動きません。ですから、専門知識を持った一部の人しか使用できません。しかし、コンピュ−タ機器や、プログラミング言語も改善され、進歩が重ねられた結果、ここに来てやっと、人間の感覚に近い形で扱えるようになってきました。その一つがマルチメディアパソコン(MPC)です。MPCの登場によって、パソコンは専門家のみの道具ではなく、大衆的道具の姿を装えるようになりました。コンピュ−タ大衆化の幕開きです。新しい時代の扉が開き始めました。とは言っても、まだまだ使いやすいとは申せません。機械を意識しないで済み、使いこなすのに特別な努力が要らず,今の生活の中に自然に溶け込んでいけるようなコンピュ−タが求められています。このようなコンピュ−タが第5世代のコンピュ−タです。現在、科学技術はこの開発に努力を傾注しつつあるところです。フロッピ−ディスクのみを用いるMPC以前のコンピュ−タでは文字・数字の扱いが中心です。画像も音も扱えません。線、線画程度なら扱えますが。MPCはCD−ROM(読み出しだけで、書き込み不能な、大容量フロッピ−デスク)や光磁気ディスク(書き込みも可能な光ディスク)、音響装置など複数のメディアを用いて、色彩豊かに文字、数字、画像、しかも動画等を統一的に扱うことができます。言わば、TV、ビデオ、オ−ディオ、ゲ−ム、電子ブック、電話、ファックス等などあらゆる情報機器を自在に組み合わせた機器といえます。MPCの特徴は「インタラクティブ(対話性)」・「双方向性」です。一方的に情報が送られてくるのではなく、利用者の要求を送り伝えることもできます。そして、好きなときに好きな情報をリアルタイムに利用、収集できる、さらに種々な加工もできるビデオ・オン・デマンド(TV on Demand)にあります。経済学者のマクル−ハンは「MPCの出現は500年前のグ−テンベルグの活版印刷にも匹敵するコミュニケ−ション革命を引き起こす可能性を持つ」と言っております。
 しかし、MPCが十分にその機能を発揮できるためには、世界的規模の広域を結ぶ大容量の通信回線網・ネットワ−クが必要です。こうしたネットワ−クとMPCが結び付けられた時、世界のどこかに蓄積されている情報を自由に入手できるのです。ですから、マクル−ハンの言葉のように、一つの文化革命(文化的事件)を引き起こす要因となり得るのです。また、新たな巨大市場を掘り起こす可能性も持っているのです。90年代、NTTがこの重要な意義に注目して、全ての家庭の末端まで、大容量の光ファイバ−網を設置し、パソコンをネット化する構想を持ちました。今、マスコミを賑わしているインタ−ネットの構想です。このことをアメリカのゴア副大統領が知って、急遽「情報ス−パ−ハイウエイ」インタ−ネット構想を立てたと言われています。アメリカはこの情報技術面での国際標準化を押さえ、文化的にも、技術的、経済的、軍事的にもいち早く、世界での優位性獲得を狙ったように見えます。ニュ−ビジネスの制覇も目論んでいるのでしょう。我が政府も我が国の情報産業界も、勿論黙って見ている訳ではありませんが、今や、アメリカとは10年程の遅れをとっております。これは一つには、家庭での低いパソコン普及率(米国40%,日本10%)、二つにはケ−ブルTV(CATV)の低い普及率(米国80%、日本3%)、つまり、インタ−ネットに対する意識の低さなどが障害になっております。しかし、その最大の理由は、我が国のネットワ−ク使用の代金が高過ぎることにあります。ですから、情報化社会に遅れをとらないためには、情報通信市場での規制緩和と再編成による市場開放が何よりも大切な前提となります。しかし、我が国の通信行政の中では、この肝心な制度の整備・改革は、各分野が党利党略に明け暮れしていて、一向に進展していません。残念なことであり、非常に由々しきことです。
 さて、私達はインタ−ネットが大きく喧伝される中で、インタ−ネットのもたらす文化・社会的状況を良く見通すことが大切です。インタ−ネットによって、瞬時にインタラクティブに情報や意見を交換し合うことができます。ですから、時間・空間を超えて、コンピュ−タ会議の開催も、協同作業も簡単にできます。また、個人で問題をうまく処理できない場合、インタ−ネットを通じて、多数の、それも異分野の人達とグル−プを組織し、互いに情報をやり取りしながら、解決に向かって問題を論じ合うことができます。狭い専門領域から解放されて、多様な視点から物を見ることもでき、解決や意思決定に資することができます。成果を挙げ易くなるでしょう。これはグル−プ全体との関係を大切にし、協調しながら、火花を散らす議論を交換しつつ、何かを創造していく新しい方法、
Collaboration(協同作業)と呼ばれる新しい研究方法の登場です。ところで、これはまた、要素と要素、個と個の間の関係を第一に置き、全体的視点から考える方法、つまり生態学的思考と同じです。Collaborationの中で重要な考え方として、再び大きく取り上げられるようになったのです。MPCはTVと同様に、音声、画像、動画など感覚に直接訴える機能の高い機器です。ですから、前述のように、事柄を細分化して論理的に解析して了解するのではなくて、全体をぱっと見渡すだけで、感覚的に万事を了解させてしまいます。情報化の時代では、デカルト以来の近代思考法の基本である要素還元主義的な考え方からは抜け落ちてしまった感覚の重要性を無視することはできません。そして、Collaborationと感覚こそが21世紀の時代精神として、取り上げられるようになってきたことは大きな変化と言えましょう。
 まだ、色々と考えることはありますが、最後に申し上げたいのは、インタ−ネットもMPCもこれからは、私達が深い関係を持たざるを得ない重要な手段(トゥ−ル)であることは確かだということです。しかも、無限の可能性を秘めています。従って、「マルチメディア、インタ−ネットで何ができるのか?」を問うよりは、「マルチメディア、インタ−ネットで何をしたいか?」を見極めることが大切であると思います。言い換えれば、私達は主体的にMPCで「どう変わるか」という消極的な姿勢ではなく、能動的に「どう変えるか」を考えるべきでしょう。
 ところで、今日、ともすれば私達に、業者の都合から過剰に駆り立てられているきらいが見られること、流され易い状態に置かれているように見られる点には、大いに注意すべきでありましょう。また、インタ−ネットの無批判な、やたらな使用によって、知的荒廃がもたらされないだろうかと懸念せざるを得ません。一個人の杞憂でなければ幸です。
長い時間、お耳を汚しまして恐縮に存じます。有難うございました。