イギリス人と約束
                            早稲田大学名誉教授 顧問
 かって、1930年ごろ出されたイギリス人に関する本の中で、あるイギリス人の著者が未開の地で、荷物の運搬などに、現地人の労働者を雇った場合、賃金を後払い出来るのはイギリス人だけであると誇らしげに述べているのに出合ったことがある。その理由は、他の国の人の場合、あとで賃金を値切ったり、踏み倒すようなこともあるのだが、イギリス人は約束を守り、絶対にそのようなことをしないからであるというのである。
 たしかにジェントルマンの国イギリスではスポーツのフィア・プレイの精神が重んじられるし、イギリスは契約社会なので約束を重視するであろうから、いかにもそうであろうとも思えた。しかし一方で、これはイギリス人の手前味噌ではないかという疑問と、かりにこの本が出された頃はそうだったとしても、現在でも果たしてその通りなのかどうかという疑念を打ち消す事は出来ないでいた。
 さて、先年、外遊の折、イギリス人の約束について、ある経験をもつ機会を得た。ある女性客が私の宿を尋ねてくることになった。私はケーキ位は用意したいと思ったのだが、私の住むゴールダース・グリーンあたりにはケーキ屋を見かけない。そこで近くの喫茶店へ出かけ、お茶を飲みながら中年のウェイトレスに明日ケーキを分けてもらえまいかと交渉してみた。彼女は即座に明日なるべく早くくるようにと笑顔で応えるのだった。
 翌日の朝、喫茶店に出かけてみると、レジに見なれない、年配で痩身の婦人が男性の事務員となにか打合せしている。彼女はこの店の責任者かと思われた。私は早速ケーキを分けてもらいたいと申し出た。彼女は、ここのケーキは客に出すもので売るわけにはいかないと、素っ気ない口調で述べた。この予想もしない反応に私は少しばかり狼狽した。私が約束したウェートレスの名前はむろん知らないし、顔さえ覚えていなかったからである。それでも、忙しそうに立ち働くウェートレスを目で追いながら、私は昨日約束したのだ、と彼女に告げた。すると彼女はなんのためらいもなく、約束したのなら仕方ない、どれが欲しいのか問うてきた。こうして私は無事ケーキを手に入れることができたのである。
 私はここに、約束を重んじるというイギリス人の特性を、しかもそれが現在でも生きつづけていることをかい間見る思いがした。しかも彼女が私の言葉を疑わず、誰と約束したかも問わずに、すぐさま約束を実行したことも印象深いことであった。このように人の言を信じる態度は他の機会にも経験したことである。イギリスでは人と人との関係が信頼のうえに築かれているように思われたのである。いずれにせよ、われわれ日本人も約束を重んずる態度を実践したいものと思う。とりわけ、政治家にそれを求めるや切である