ウォーキング&山歩き部会 第62回9月11日 板橋宿、とげぬき地蔵、六義園

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夏の猛暑に衰えがない9月11日(月)、18名(内女性6名)の参加を得て行った。
中山道は、江戸時代の五街道(江戸・日本橋を起点に伸びる東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)の一つで、京都と内陸経由で結び、東海道よりも約40km長く、宿場も16宿多い。中山道板橋宿は江戸四宿の一つで、品川宿:東海道、千住宿:奥州街道、内藤新宿:甲州街道と共に繁栄していた。
都営地下鉄三田線の板橋本町駅からウォーキングを開始。現在の中山道は2車線の自動車道路で上部に首都高が走っている。この現代の道路と僅かに隔てて旧中山道が「通り」として残っているが、街並みは全く現代風の建物が並び、往事を偲ぶべくもない。これも東京が大都会として発展してきた過程を物語っているのであろうが、少し寂しい思いも禁じ得なかった。その「通り」があることだけが、かって中山道板橋宿として栄えた名残となっているだけで、本陣はスーパーマーケット、脇本陣はマンションとなり、それらがあったことを示す表示が見落としがちな形で設置されていた。形があるものとしては、板橋宿の名の由来である石神井川に掛けられた「橋」と、縁切りの願いに霊験あらたかな「縁切榎」だけが、僅かに残っていた。そんな中でも、往事の想像も含めて板橋宿の「通り」を楽しんで歩いている内に、1㎞半余りは通り過ぎていた。
次にJR板橋駅前にある近藤勇の供養塔(墓)に立ち寄った。鳥羽伏見の戦いで敗れた新選組は、紆余曲折ののち流山へ辿り着き、近藤勇は潔く自刃しようとするが土方が止め、新政府軍に投降し、新政府軍の本営があった板橋宿へと連行された。慶応四年(1868年)、近藤勇は板橋宿の刑場で斬首され、首級は京に運ばれて三条河原に晒され、胴体はこの地に埋葬されたと言われている。司馬文学の新選組血風録に描かれた英雄の起伏の生涯が、当時の時代潮流の中で輝きを見せた一瞬に思いを馳せた。
更に旧中山道を日本橋方面に遡り、都電荒川線の庚申塚停留場を過ぎ、地蔵通り商店街の入口にある小さな神社、猿田彦大神に参った。庚申信仰に基づき、古くは中山道板橋宿の一つ手前の立て場(宿場と宿場の間の休憩所)であり、大いに賑わったという。サルタヒコは、日本神話に登場する神で、天孫降臨の際に、天照大神に遣わされた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を道案内した国津神であり、伊勢国五十鈴川の畔に鎮座したとされ、中世には庚申信仰や道祖神と結びついた。現在までに伝わる庚申信仰とは、中国の道教に、仏教、特に密教・神道・修験道・呪術的な医学や、日本の民間のさまざまな信仰や習俗などが複雑に絡み合った複合信仰であることを、神社に掲げられた説明分より学んだ。
お昼頃、漸く「とげぬき地蔵」のある高岩寺に着いた。本尊の地蔵菩薩像は秘仏につき非公開であり、本尊の姿を刷った御影(おみかげ、小さな和紙に地蔵菩薩立像が描かれている)に祈願・またはその札を水などと共に飲むなどして、病気平癒に効験があるとされる。境内には「とげぬき地蔵の由来」として、効験に関わる昔の出来事が掲げられてあり、興味深く読んだ。この場所で、暫し散会し、各自分散して付近の食堂で思い思いの昼食をとった。名物の塩大福を求めた方も散見された。
ここから30分弱歩いて六義園(りくぎえん)を訪ねた。徳川五代将軍・綱吉の側用人・柳沢吉保が、自らの下屋敷として造営した大名庭園である。約2万7千坪の平坦な土地に土を盛って丘を築き、千川上水を引いて池を掘り、起伏のある景観をもつ回遊式築山泉水庭園として有名である。明治になり三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎が六義園を購入、維新後荒れたままになっていた庭園に大幅な整備を施し、昭和13年には東京市に寄贈した。六義園は花も有名で、弥生の枝垂桜、皐月の躑躅は特筆されている。今回は残念ながら花の季節に外れたが、本来の景観を楽しむべく1時間余りの自由散策とし、各自それぞれ広い庭園に散ってその壮大且つ繊細な美しさを満喫した。
注:「六義園」の名称は、紀貫之が『古今和歌集』の序文に書いた「六義」(むくさ)という和歌の六つの基調を表す語に由来する。
駒込駅から帰途につき、東久留米で多くの有志が参加して、恒例の打ち上げを行った。                  部会長:東海俊孝記
中山道始まり部分の広場_IMG_0655板橋にて_IMG_0656近藤勇の慰霊碑_IMG_0659六義園_IMG_0661六義園_IMG_0671