「杜の西北」と「東稲ニュース」の沿革と役割
        高橋 勤 36年法卒 会長

 東久留米稲門会機関紙として「杜の西北」の創刊号は当稲門会が設立された年の平成7年9月に発行され、A-4判2頁で事務局のコピー機で印刷された急拵えのものでした。編集長は国米家己三氏(31年政経、顧問)で現在もその任に当たっています。ちなみに「杜の西北」のタイトルは国米編集長が考え1号より採用されています。創刊号の内容は設立総会の解説と挨拶の要約が主となっています。紙面で目を引いたのは、当稲門会の女性会員の中心となり活躍することになる5名(菱山さん、栄田さん、石寺さん、山岡さん、八木さん旧姓山下さん)の集合写真であります。また、当会の初めての行事として企画された<古都鎌倉散策の会>に参加した16名の写真が掲載されていることです。2号は4頁でしたが、3号は6頁となりました。ここに「杜の西北」は当稲門会の広報の柱となったのです。編集の基礎ができあがったと思われます。対談、会の年間の事業計画案、活動報告、収支決算書、部会ごとの活動報告、随筆、わが早稲田時代、会員の近況、特別寄稿等々の内容となります。なお、編集委員は2号より女性会員が担当することになりました。


 「杜の西北」の特色は一面トップの対談記事であると思います。2号の安宅武一初代会長(28年商)より対談が一面を飾ることになり、インタビュアーは女性編集員が担当することになりました。3号以降の対談者は榎本隆司本庄高等学院長(当時)、原輝史早大エクステンションセンター所長(当時)、奥島孝康早大前総長、渡辺重範早大副総長兼早稲田実業校長、それに私(会長就任時)の6名でした。
 これらの対談で特に印象が深かったのは、奥島前総長の発言でありました。対談の中で「この話は初めて公にするのだが」と前置きされて、「革マル主導の早稲田祭は体をはって絶対許さない。大学は30年の間脅迫され暴力を振るわれ、屈辱の日々を過ごした。革マル派と共存するため大学側はどんどん彼らにカネを出した。補助金の一部も彼らに流れ、要するに革マルが早稲田大学を食いものにしたのだ。長年、全然戦おうとしなかった歴代の先輩教授にも大いに不満がある」と語ったことでした。それと奥島前総長が4号までの「杜の西北」と見て「ほう、素晴らしい会報ですね」とつぶやかれたことが記憶に残っています。この対談の掲載された「杜の西北」を奥島前総長の要望により50部をお贈りいたしました。
 「杜の西北」は4号から7号までは8頁建てで発行され、8号では10頁建てとなり、他の稲門会の会報には例がないのではと思われます。本機関紙は東久留米市在住の早稲田大学OB約1000名の校友全員に総会案内と共にお届けしています。これは太田晴之助氏(32年政経 顧問)の提案で2号より実施されています。それと大学と三多摩のすべての稲門会にも発送しています。当稲門会の会員だけでなく内外に向けての情報提供の機関紙なのです。


 「東稲ニュース」の第1号の発行は平成13年9月1日です。編集長は比護喜一郎氏(37年商 副会長)が担当してます。「東稲ニュース」は設立当初より安宅武一初代会長が編集発行してきた年4回の「東稲通信」(はがき通信)を、装いも新たにしたスタートした隔月発行の会員を対象としたニュース紙です。会と会員、会員と会員の情報の場として、会から行事のお知らせ、各部会の予定と活動の報告、会員の近況と出来事、会員の随筆、雑学塾の講演の要約、大学の最新情報等々、当稲門会の情報を会員の皆様にリアルタイムに提供するのが役目となります。


 一昨年11月に当稲門会の「ホームページ」(責任者 松崎博氏 35年理工 幹事)が開設されました。「ホームページ」と「東稲ニュース」は両者一体となり、相互に補完しあって、情報を発信します。同時に「ホームページ」は常時更新ができ、さらに会の活動が活発になり、部会の数も増えてくると、「ホームページ」「東稲ニュース」紙面で情報を随時お知らせすれば、会員全員が会の行事、部会活動の状況を知ることができます。個々に連絡するよりも経済的、効率的となります。
 これからも、「杜の西北」「東稲ニュース」「ホームページ」の3系統のメディアが当稲門会の情報を発信していくことになるのです。 (平成15年3月)
                           
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